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木之本家の門のところまで、四人で歩いてきた。
「じゃあ、よろしくね。木之本さん。小狼、また後でね」
苺鈴は、微笑んでそういうと、知世の手を引いた。
さくらと小狼は、『うん』とか『ああ』とか言葉少なく返事をする。
「それでは、失礼いたします。さくらちゃん、李くん」
知世が丁寧に頭を下げ、二人はバス停へ向かった。
「さくらちゃん、李くんに告白できるといいですわね」
「本当よ。せっかく、苦労して小狼を連れてきたんだから」
ここでは詳しく語らないが、彼女は小狼を日本へ連れ出すため、ものすごく苦労したのである。あのとおり、真面目で責任感の強い小狼を説得するのに、どれほど時間がかかったことか。小狼のために、などといえば、決して香港を動かないであろう。結局、子供のころからの付き合いで相手が折れた形になったのだが。伯母上が、後押ししてくれなければ、どうなったか、強気の苺鈴でも自信がない。けれど、そこまで努力したのは、小狼を想う気持ちからだった。自分の大切な従兄弟のしあわせを心から願って。
「苺鈴ちゃん、おやさしいんですね」
知世もそんな苺鈴の気持ちがよくわかった。彼女が、小狼に『好きな子がいる』といわれ、自分の膝で泣いて以来、苺鈴とは、ちょくちょく手紙をやり取りしている。お互いパソコンを持ったので、最近は電子メールをもっぱら利用している。
そんな会話をしながら、立ち去る二人に、取り残された感のさくらと小狼。門のところにいつまでもいられないのだが、すでに、互いを意識して、ギクシャクしてしまう。とりあえず、階段をのぼり、家へと入っていった。
「お茶、入れてくるね」
リビングに小狼を案内し、早々さくらはキッチンへ行く。突然の二人きりに、さくらはつい、ぎこちなくなってしまう。お湯を沸かし、茶器を用意しながら、隣の部屋が気になる。一度、ソファに腰をおろしたはずの小狼も落ち着かないのか、部屋から顔を出してきた。
「手伝おうか」
「えっ?いいよ、大丈夫。座って待っていて」
ぼぅーっとしていたさくらは、あわてて返事をした。小狼はしかたなく所在なさげに、ソファに戻る。さくらの家には、何度か来たし、ケルベロスになって、泊まった事もあったのに、この部屋には入ったことがない。つい、あたりを見回してしまう。それに、さくらと二人きりなのを意識しないわけにいかない。
小狼が、リビングに戻ると、さくらは小さくため息をついた。なんだか信じられない気分だった。逢いたいと想っていた人が、今、自分の家にいる・・・
さくらは、冷蔵庫から、藤隆が作っておいた苺のケーキを取り出した。藤隆のケーキは、とてもおいしい。『小狼くんが、来てくれた時にあってよかったな』と、思いながら、切り分ける。
紅茶の用意とケーキを二人分、お盆に載せて、さくらは、小狼が待つリビングに戻った。テーブルに茶器を置き、ポットから紅茶を注ぐ。そのさくらの手元を小狼がじっと見ている。なんだか、緊張して、さくらはカタカタ小さく音をたてて、小狼の前に茶碗を置いた。そして、ケーキを並べ、そっと小狼に訊いた。
「小狼くん、お砂糖いる?」
訊きながら、シュガーポットのふたを取る。
「あっ、いいよ。自分でやる・・・」
言いながら、スプーンに伸ばした手が、さくらの手と触れ合う。
「!!」
あわてた小狼が手を引っ込める。勢いで、シュガーポットが、倒れ、砂糖が一面にこぼれた。
「ごめん」
「大丈夫、すぐ片付けるね」
かすかに触れた指先が熱くて、さくらは小狼の顔をまともに見ることができない。急いで砂糖を片付ける。
不意に。さくらは『今だ』という気がした。小狼に返事をするなら、今がその時だと。
「しゃ、小狼くん、あのね・・」
さくらが、なにか言おうとしている。頬を染め、真剣な眼差しで。それが、自分への返事だと気づかない小狼は、さくらの次の言葉を待っている。
さくらは、何とか自分の想いを言おうとした。以前、小狼が、さくらに伝えてくれたように。でも、どうしてこんなに胸がどきどきするのか、わからない。言おうとすればするほど、鼓動が早くなり、頬がますます熱くなる。
「小狼くん、わたし・・・わたし」
小狼が優しい顔でさくらを、自分を見つめてくれている。なんだか大人びた眼差しで。四ヶ月、会えなかっただけなのに。小狼は、こんな表情をしていただろうか。ただ、今まで自分が気づかなかっただけなのか。
久しぶりに会えて、相手が大人びて見えるのは、小狼も同じだった。頬を紅くして、何度も言いかけ、うつむく。一生懸命伝えようとするその姿がいとおしい。
永遠に続くかと思われる二人きりの時間が流れる。とうとう、さくらは、思い切って顔を上げた。
「わたし・・・わたしね、小狼くんのこと・・・」
「ケーキのにおいや!!」
突然、ケルベロスが目の前に現れた。さくらが家に入ってきたときは音沙汰がなかったのは、二階でゲームをしていたようだ。部屋でおとなしくしているかと思ったが、やはり、甘い匂いに気づいて降りてきたようである。
勇気を奮い起こして、もう少しで、小狼に気持ちを言えそうだっただけに、さくらは、一瞬頭の中が真っ白になった。
「ケ、ケロちゃん、どうして・・・」
「やっぱりケーキや!さくら、わいのおらんところで、小僧と二人、ケーキ食べようとしとる!」
ケルベロスは、テーブルの上を見て、さくらに文句をいった。
「ケロちゃんも、呼ぼうとしてたんだよ」
力なくさくらは、答えた。食べ物がからんだら、ケルベロスに何をいっても無駄である。気が抜けたように立ち上がると、二人に言った。
「ケロちゃん、小狼くんとケーキ食べてて。小狼くん、私、夕食の準備してくるね」
「ああ」
小狼に微笑んで返事をされると、さくらの胸がまたキューンとした。ケルベロスは、テーブルの上でケーキを選ぶのに余念がない。
「どっちが大きいかなぁ」と見比べている。
さくらが、キッチンに消えると、小狼はケルベロスに呆れて言った。
「相変わらず食い意地が張ってるな、ぬいぐるみ」
「食に対する探究心や」
そう答えると、ケルベロスは、大きそうにみえたケーキの皿を持ち上げた。
「こっちや!」
そして、小狼のほうをチロリと見た。
「ケーキ、取り替えてやらへんで」
「おまえと同じにするな、このぬいぐるみ!」
小狼は、紅茶を一口飲んだ。すでに、二回も『ぬいぐるみ』を連発されて、もう、おとなしくしているはずがなかった。
「こんなに格好ええわいが、ぬいぐるみやとおおぉ」
そう叫びながら、ケルベロスは、座っている小狼の背に飛び乗り、いきなり元の姿に戻った。本当の姿のケルベロスに覆い被さられた小狼は、たまったものではない。ソファの上にうつぶせになる。
「小僧が来とるっちゅうことは、小娘もおるっちゅうことやな。わいのこのかっこええ姿見たら、びっくりするやろなぁ」
ケルベロスは何事もなかったかのような涼しい顔をして、小狼にのしかかったまま、ひとり言を言っている。
「おい、やめろ。重い・・・」
「どない顔して驚くかなぁ」
ケルベロスは、いっこうに降りそうにない。小狼の声も聞こえないかのように振舞っている。
「早く、どけぇ!」
「はあぁ、楽しみやなぁ」
「いい加減にしろぉっ」
そろそろ小狼も限界の様子である。
隣の部屋の声が、かすかに聞こえてくる。キッチンでお湯が沸くのを待つ間、さくらは、幸せな気分だった。たとえ、まだ返事が言えなくても、小狼がここにいるのだから・・・
「はぁー、食ったで」
お腹をポンポンにして、最後のパスタをちゅるぅっと食べたケルベロスがいった。口の周りはトマトソースで真っ赤になっている。よほど満足したらしくご機嫌なようだ。
「小狼くん、味うすくなかった?」
さくらは、心配そうに訊ねる。小狼は、カタリとフォークを皿に置き、ナプキンで口元を拭いた。
「いや、おいしかった。ごちそうさま」
その言葉にさくらはホッとした。
「小狼くん、夕食の用意、手伝ってくれてありがとう」
「夕食の用意いうたかて、レタスちぎっとただけやないか」
すかさず、茶々を入れるケルベロス。
「ケロちゃんは、何もしなかったじゃない」
「わいは、ケーキを食べるのに忙しかったんじゃ」
さくらの抗議に平然と答えている。あの後、小狼の分を含め、三切れもたいらげたのだ。
「食い意地が張ってるだけか」
「なんや小僧!勝負するかぁ!」
さっきのこともあり、お互いにらみ合う。
「ケロちゃん!!」
「小僧、命拾いしたなぁ」
小狼は全くそうは思っていない。命拾いは、ケルベロスのほうだという顔だ。
ケルベロスは、さくらに止められ、しぶしぶ小狼のそばを離れる。気が抜けて大きなあくびをした。
「ケロちゃん、もう寝るの?」
あくびを見て、さくらは訊いた。
「今日、1日ゲームしとったさかい、目ぇがショボショボするぅ。早いけど、もう寝るわ」
ふらふらと、飛びながらケルベロスはキッチンを出て行った。
にぎやかなケルベロスが消えて、部屋がシーンと静まり返る。さくらが小狼を意識するので、小狼もつい、頬を染めてしまう。さくらの心臓は激しく鼓動を打ち、この音が相手に聞こえるのでは、と、一瞬思ってしまう。
「小狼くん、わたし・・・」
さくらが、やっとの想いで先ほどの続きを言おうとした時。
「ただいまー」
玄関から桃矢の声がした。
「いいから、晩飯食っていけよ。どうせ、一人なんだろ」
たぶん、連れは雪兎だろう。スタスタとスリッパの音がして、桃矢が、キッチンに顔を出した。
「さくら、お客か?」
そういって、小狼がいるのが目に入り、おもわず、目から火花を飛ばす。小狼も負けじと火花を返している。その迫力にさくらが『ほえぇぇ』と呑まれていると、
「さくらちゃん、こんばんわ」
桃矢の後ろから桃矢の親友、そして、月(ユエ)の仮の姿である、月城雪兎が顔を出した。
「あ、君は・・・」
雪兎は、桃矢の視線の先の小狼に気づくと、にこっと微笑んだ。小狼は、照れたような表情を浮かべ、そっと会釈した。
雪兎には、以前憧れていたこともあり、素直な態度がとれる。しかし、桃矢にはお互い敵愾心があって、そうはいかないのだった。
「あいつー、やっぱり帰って来やがったな」
桃矢は自分の予想通りの展開が気に入らないらしい。さくらが、小狼を見送りに玄関へ行ってしまうと、ぶつぶつ文句を言い出した。
「桃矢は、どーしてあの子にいぢわるするのかな?」
雪兎がにこにこして尋ねる。本当は判っているのだが、こういうときの桃矢はからかいがいがある。
「うるせーっ!!気にいらねぇんだよっ」
「桃矢、さくらちゃんのこと、かわいくて仕方ないんだよね」
それには、答えず、『ふんっ』とパスタを口いっぱい放り込む桃矢であった。
門の内側に立ち、さくらは小狼が階段を下りていくのを見ていた。
「バス停のところまで、送っていくよ」
小狼と離れがたい気持ちが、さくらにそういわせる。
「いや、大丈夫だ。もう暗いし」
小狼は、さくらが、ただ心配しているのかと思い、そう答える。一緒に居たいのは山々だが、バス停から、一人家に戻ってくるほうが、自分には心配だ。
さくらは、そう言われて無理にもついて行けず、少しさみしい。
「明日、学校へ来る?」
「ああ。山崎たちにも会いたいし」
「じゃあ、会えるね」
「ああ。また、あした」
同じ学校に通っていた頃は、毎日のように、なにげなくかわしていた言葉なのに。今はとてもうれしい気持ちでお互いが言える。二人の間が暖かいもので満たされ、しあわせな気分になる。
ゆっくりと歩み去る小狼の背中を見送りながら、さくらは、自分の中の小狼への想いを抱きしめるのだった。
その頃。さくらの部屋では異変が起きていた。さくらカードが一枚、スーッと束の中から抜けると、夜の闇の中へ吸い込まれるように消えていったのだ。
さくらは、自分の部屋で起こったことに全く気づかずに、小狼が見えなくなるまで立っていた。