光の春

 遠くから聞こえる華やぐ乙女たちの声。もうすぐ訪れる記念日への誘いだろうか。塀の上でスピネルはぼんやりと耳を傾けていた。
「今年こそどうにかしなければ、ですね。」
 深いため息が漏れる。仕方がないことではあるが、創造主の意向が今更ながらちょっぴり恨めしく感じるのだった。そんな彼の憂鬱を他所に、真下を少女達の一群が通り過ぎていった。その彼女達の後姿には、凍てつく寒さの中、陽光が天使の羽根のようにきらめいていた。

 ことは3日前。そこには意を決してキッチンにたたずむスピネルの姿があった。お菓子づくりはエリオルが得意だったから、何度か作っているところも見ているし、材料の買出しにも付いて行ったから、全く何も知らないわけではない。
「なんとか小狼さまにお願いして、内緒で材料は揃いました。道具は泡たてきにボウルにお湯・・・。ふぅ、作り方はエリオルに電話で聞きましたし、なんとかできそうですね。」
 が。その自信はすぐに打ち破られてしまった。
「あ、甘い香り・・・。しかし、味見をせずに小狼さまへお渡しすることはできません。少しなら大丈夫かもしれませんし・・・。」
 そろりと爪の先につけてチョコレートを口へ運ぶ。舌の上を極上の味が広がって・・・。
「・・・ひぃっっく!おいし〜〜〜よ〜〜〜〜〜ぅ!」
 気が付いたら、キッチンはめちゃめちゃ。せっかく作りかけていたものは既に影も形もなく、茫然自失の自分がいるだけだった。
「小狼さまが遅い日でよかったです。こんなところ見せられません。」
 しかし、彼の計画一向に進んでいない。

 その後何度か試みてはいるのだ。だが、味見の段になると、一気に記憶が飛んでしまい、気が付くと汚れたキッチンに倒れているのだった。
「このままでは、14日に間に合いません。エリオルは電話で相談しても、なんだか面白そうに機嫌よく笑ってしまって、私の苦労など何も考えてくれないんですから。」

*

「そういうことでしたら、お手伝いさせていただきますわ。」
  翌日スピネルが思い切って出かけた先は、大道寺家。恥を偲んで、知世に今までの失敗談を披露する。
「私は、いつも何かと気遣ってくださる、小狼さまに・・・。ちょっと差し上げたいと思って。その、小狼さまの好物ですし、感謝の気持ちで・・・。」
 スピネルのしどろもどろな説明を一部始終を聞き終えて、彼女は微笑んだ。
「それはさぞお困りだったことでしょう。丁度これからさくらちゃんのお宅へ伺って、作るところでしたの。材料も揃っていますから、ご一緒にいかかです?もし、心配なら、飾りつけだけでもご自分でなさるとか、いろいろ方法もありますし。」
 さくらの家で、ということで、頭の隅を一抹の不安がかすめる。しかし、自分のこれまでの失敗を考えれば、もう、時間がない。彼女の提案に乗るほかはなかった。

 運の良いことに、さくらは一人きりだった。あの黄色い物体の姿を見ずに計画が実行できるのは本当に助かる。それでなくても、全神経を集中させてもできるかどうか、自信がないスピネルだった。
「知世ちゃん、電話で言われたとおりケロちゃんには出かけてもらったよ。」
「有難うございます。これでスピネルさん、落ち着いてできますわ。」
「スピネルさん、甘いもの苦手だったの?ケロちゃん、遊びに来るって聞くと、いっつもお菓子たくさん用意してるんだけど。」
「うふふ、苦手というか、好きだから困るのかもしれませんね。」
 さくらは、小首をかしげた。いつも木之本家でにぎやかにしている姿しか想像できなかった。
 知世がリビングに荷物を置くと、早速作業に取り掛かることになった。キッチンのカウンターには道具類が広げられ、何種類かの板チョコレートに生クリームといった材料も置かれている。
「うふふ、今日はスピネルさんと一緒に作るんだね。なんだか楽しいな。」
 さくらはエプロンを身につけながら話し掛けてきた。スピネルは主人の想い人と一緒ということには、後ろめたさもあったが、状況が状況だけに、おとなしく頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします。」
「ケロちゃんと違って、スピネルさんは本当に真面目だよね。素敵なチョコ作ろうね。」
 彼女の笑顔が眩しくて、つい、目を逸らしてしまう。それでも、今度こそ主に喜んでもらえるものを、と、意気込みだけは徐々に盛り上がってきた。

 数時間後。

「日本の女性の方々は、毎年このような苦労をなさっているわけなのですね。」
「うん、そうだよ。でも、これは楽しいことでちっとも苦労じゃないんだよ。」
 そう答えるさくらの姿は、自信にあふれている。
「前にエリオルくんに聞いたよ。イギリスでは男の人が贈るんだって。」
「ええ。チョコというより、お花やお菓子ですが。」
 ふわふわと傍らに浮かびながら、懸命にボウルの中身をかき混ぜる黒猫。
「もう少しの辛抱ですから。これを先ほど冷やしたものにかければ完成ですわ。」
 甘い匂いの充満するキッチンで、知世が懸命に励ます。どれくらいかき回していたのか、それでもクリーム状だった茶色の液体は徐々にとろりとしてきて、光沢がでてきた。
「十分ですわ。さあ、こちらに冷蔵庫から出したものを並べましたから。」
 フォークで丸い塊をすくってとろとろの液体をくぐらせる。パラフィンの上に並べ、スピネルは粉砂糖をその上にふるいながらかけていく。
「あともう少し。もう少しでチョコが・・・。」
 しかし、ここまで懸命に努力した分、スピネルは大量の甘い香りを吸いすぎてしまった。ふるいに粉砂糖を足そうとして、そのまま袋にぶつかってしまったのだ。
「スピネルさん?」
「大丈夫ですか?」
 周り中白い煙が立ちこめる。よろよろと立ち上がるスピネルの口の中には砂糖が充満していた。
「だいじょ〜〜〜〜〜〜ぶぃ」
「あらあら」
 知世は気の毒そうに黒から白に変わった猫を見詰めた。

「スピネルさん、気分はどう?疲れていたのに気が付かなくてごめんなさい。」
「そういうわけではないのですが。少し休めば治ります。私のほうこそキッチンを汚してしまってすみません。どうぞご心配なさらずに。」
 すっかり甘いものに悪酔いしてしまったスピネルは、リビングのソファになだれ込んだまま動けなくなってしまった。主人の大切な人に気を遣わせる自分自身に腹を立てながらも、どうにも動きが取れない。
 『こうなっては二度と<バレンタインにチョコレートを>ということは考えないことにしましょう。私のためにさくらさんにまでご迷惑をかけてしまっては、小狼さまに顔向けできませんから。』
「さくらちゃん、きっと大丈夫ですわ。私、帰りにお家までお送りしますし。」
 苦しげなスピネルの頭をなでながら知世はささやいた。
「知世ちゃん、そうしてもらえる?スピネルさん、すっごく頑張っていたんだもん。」
 知世はにっこり頷くと、もう一度タオルケットをスピネルの肩へ掛け直した。
 少女達は忠実な黒猫をゆっくり寝かせようと、そっと立ち上がり、キッチンで作業の続きを始めた。

「本当に何から何までお世話になりました。さくらさんと知世さん、お二方にはとてもとても感謝しています。私の分まで用意していただいて・・・。」
「いいんですわ。私たち、ご一緒の時間を過ごせて楽しかったですし、スピネルさん、本当に頑張っていらっしゃいましたもの。明日は素敵な夜になるといいですわね。」
「有難うございます。それでは、今日はこの辺で失礼いたします。」
 知世のにこやかな笑顔に送られて、スピネルはやっと小狼の家に戻ってきた。
『本当に、お二人にはお世話になって。おかげで念願のチョコレートができました。・・・来年はもうあきらめましょう。』

*

 翌日は、まさしく光の春。冷たい空気のなのに、日差しはぐんと力を増して、ほのかに暖かい。春が思ったよりも近くまで歩み寄ってきているのが感じられる日だった。
 スピネルは日差しに誘われ、いつもなら部屋で帰りを待つのが、今日はマンションの入り口まで来てしまった。
「さくらさんとご一緒でしょうから、お帰りはもう少し後でしょうが。」
 口にくわえた薄い包みを足元に置いて伸びをする。背中にあたる陽のぬくもりが本当に気持ちよい。昨日までの悩みもすっかり消えてうとうとと眠りに落ちていく幸せ。
「それでも今年は日頃の感謝をお伝えできるのですから、有難いことです。」

 やがて、夢心地の中で聞きなれた足音が遠くから響いてきた。
「小狼さま?」
「ああ、スピネル。ただいま。こんなところで何をしているんだ。今夜は冷えるぞ?」
 彼の暖かい声を聞くと、急に緊張感が押し寄せ、頂点に達した。
「こ、こ、こ、これを、ど、ど、ど、どう・・・」
「え?何だって?」
 塀の上から彼の肩の上に飛び降りたつもりだった。口にそっとくわえたチョコレートを、差し出された右手へ渡して。
 だが、昨日までの疲労と心労とでうまくバランスが取れなかった。確かに、チョコレートの包みは小狼の手に渡った。しかし、肝心のスピネルの身体は踏み切りが強すぎて殆ど小狼の顔をめがけた形となった。スピネルは全身になんとか力を込め、彼の顔に爪を立てないよう、最大の努力を試みた。かろうじてその努力は報われ、けれど、右の前足が滑ったおかげで、思わず彼の頬に鼻面を寄せる形になってしまった。『小狼さまにキスしてしまいました、どうしましょう。」スピネルはたちまちパニック状態に陥った。
 小狼の方と言えば、少し驚いたようだったが、相手のパニックにも気づかず、包みとスピネルの身体を上手に受け止めた。
「大丈夫か?びっくりしたよ。」
「すみません、小狼さま。この・・・この包みは日頃お世話になっている感謝を込めて作りました・・・。」
 一気にそれだけを言った。心臓が激しく波打っているが、小狼には知られたくない。
「あ、そうか。スピネルが作ったのか?どうも有難う。とても嬉しいよ。」
 小狼はスピネルを肩に乗せたまま、鞄を下に置き、さっそく包みを開いた。
「トリュフ _だ、おいしそうだ。」
 そういい終わらないうちに一つつまんで口へ運ぶ。そして、じっくりと味わって深く頷いた。
「とってもおいしい。スピネルも食べてご覧?きっと味見もせずに一生懸命作ったんだろ?」
 返事をする間もなく、丸いチョコレートが口の中一杯に入ってきた。確かに自分一人で作ったときよりおいしかった。でも、その分あっという間に酔いが回ってきた。
「スピネル、甘いものを食べると酔ってしまうのに、随分頑張ったんだな。苦労したんじゃないか?」
 気遣われてスピネルは返す言葉がない。小狼さまは自分の思いを解ってくれたのだと思うと、嬉しくてたまらない。

「しゃおらんさま、おひすひ?」
「おいしいよ、とっても。」
 何度目かの酔っ払いの質問に小狼は快く応える。だいぶへべれけになったスピネルは首が前後に揺れて危なっかしい。
「さくらさんのには、敵いっこないけど、ほんと〜におひすぅい?」
「うん。」
「ふぁぁ〜、よかったぁ〜。よかったよぉ・・・。zzz」
「スピネル。本当に随分頑張ってくれたんだね。どうも有難う。」
 小狼は肩の上で眠ってしまった黒猫をそっと両腕に抱えなおすと、そのまま階段をゆっくりと登った。

 

 

今回は久しぶりに小狼とスピネルの話です。この組み合わせ、結構いいと思うのです。