スタンリー・キューブリックの「アイズ・ワイドシャット」



どうして、男と女なのか?
この性の違いがなければ、どれだけ世の中、楽になるだろうと思うことがある。
でも、世の中、単一の性しかなかったら、これはこれで味気ない世界なのかもしれない。

性に関する問題は、少なくとも、正常な人ならば、物心ついてから一生、関係することだし、自分の性欲と現実とのギャップから、深く傷つく人もいるし、道を誤る人もいるかもしれない。
特に最近は、インターネット・e-mail・携帯電話の普及で、欲望と欲望の接点が増え、ボーダレス化し、バーチャル化し、より複雑化している。

そういうリスクというか誘惑を感じながら、人は、芸術・スポーツ・仕事で、欲望を別な目的で昇華させたり、特定の恋人・結婚(一夫一婦制)・子育てといった、いわゆるまともな人生を送ることで、自分のなかの危険なものを押さえ込む。時折、他の誰かを考えたり、TVドラマの恋愛ものやアイドルに夢中になったりしても。

スタンリー・キューブリックの遺作となった「Eyes Wide Shut」では、自分の中の制御できない欲求と、夫婦という制度に基づいた愛情に揺れ動く男女を描いていて、興味深かった。
(野口 悠紀雄の本を読んでいたら、この映画をひどく酷評していたが)
離婚してしまったが、この映画の撮影のとき、トム・クルーズとニコール・キッドマンは、本当の夫婦だった。これもある意味すごい。
最後の場面で、トム・クルーズが
「夢もまた現実」(ここでいう夢とは、たぶん、性欲という本能に囚われた状態を指している)といったことに対し、
ニコール・キッドマンが
「でも、私たちは、今、起きている。そして、いつも覚めていたい。」
といった言葉が印象的だった。
(この後、彼女は、夫に対して、でも、私たちはすぐ家に帰ってファックしなければいけないというのだが、その言葉がすごく重い。)

性欲という本能に身を任せて思うまま生きる人生と、自らの欲望を抑えながら生きる人生のどちらが幸せなのだろう?
そのせめぎあいの中で、おまじないのように私もこう思う。
「そして、いつも覚めていたい」と。

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