悲しみのジン


 ジンを好んで飲んでいた時期があった。ビールも飲み飽きて、ロングドリンクの時間になれば、出番はウィスキー、カクテルだ。

 私の場合、最初に飲んだカクテルはシンガポール・スリングだった。この甘いカクテルがまさかジン・ベースだとは夢にも思わなかったが、色々試して飲んでいるうちに、自分の好みがジン・ベースだということが分かってきた。ギムレット、ジントニック、ドライマティーニ、ジンライム、ジンフィズ。なかでもジンライムが好きだ。ジンのにがみとライムの芳香が、口のなかをスッキリとさせてくれる。

 ジンの良いところは、飲んだ翌日、口に嫌な後味が残らないことだ。ウィスキーだとあの強い匂いが翌日まで口のなかに居座っていて、それがひどいときには二度と酒なんか飲むかと思うことさえある(そう思ってまた飲むのだが)。

 しかし、本当にジンというお酒が好きなのかどうかという点では、自分でも確信がなかった。というのは、ニート・ジン(生のままのジン)は決して飲むことができないからだ。どんなによいジンであっても、ジン特有の薬くささのせいで、ストレートで飲めなかった。私の場合、あくまでカクテルのベースとしてジンが好きなのだ。

 家では主にジンフィズを作って飲んでいた。レモン水、トニックウォーターを入れて軽くステアすると炭酸がシュッと音をたてる。緑のタンカレーや青のボンベイサファイアは、瓶を見ているだけで涼しい気分になれた。

 平井和正 作のウルフガイシリーズ「若き狼の肖像」(懐かしいね)のなかで主人公の犬神明が蒸したオフィスのなかで、美味しそうにジンライムを飲むシーンがある。まだ中学生だったがこの緑色のお酒が、ひどく美味しそうに思えた。

 ジン蒸留製造には、杜松(ねず)の実を用いる。杜松は、英語でジュニパーといい、ジンという名前は一説にはこれが詰まった形だと言われている。

 ジンは基本的にはグレイン(穀物の意。大麦)・スピリッツであり、一種のビールを蒸留することによって造られる。純粋な状態に蒸留された後、主に杜松、その他ヒメウイキョウ、コエンドウ、アニスの実、桂皮、甘草などが加えられ、ふたたび蒸留される。ワインやウィスキーのように年月に熟成を置く必要がない。

 ジンは、一五〇〇年中頃、オランダのライデン大学医学部でフランシスクス・ド・ラ・ボエ博士により薬用酒として造られ、一六八九年、オレンジ公ウィリアムとともにイギリスにやって来た。そして、彼はイギリス国内においてフランスのブランデーよりもオランダのジンを飲むことを奨励し、値段を安くした。その結果、ロンドンの犯罪率は急激に高騰する。

 一ペニーでいい気分、二ペンスで酔いどれ。今までビールやサイダーやスペイン酒に慣れていた人々にとって、ジンは安価な麻薬と同じ効果のものだった。人々は、より強い刺激を好み、必要な二ペンスを得るために窃盗や強盗を犯した。そして、ジンを飲むのは大都市の貧乏人に限られていた。ロンドン・ジンは強い匂いがある。…正直にいうと、むしろ下品な婦人の香水のような。

 ジンにまつわる暗い歴史は、意外に知られていない。田村隆一は「金色のウイスキー」と比較するかのように「悲しみのジン」という言葉を残している。

 最近、ジンを飲んでいない。というか、あらゆるアルコールは私の周りから揮発してしまったかのような生活だ。そんな訳で、残念ながら、まだ「金色のウイスキー」をそばに置いた生活をしていない。

 冷え冷えとした秋の夜、皎皎と照る月を見ながら「金色のウイスキー」を片手に…なんていう情景にはすごく憧れるのだが。


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