太陽のエネルギー


1959年4月30日、永井荷風は七十九歳で死去した。同年7月に、石川淳は、「敗荷落日」という荷風に対しての追悼文を発表している。この追悼文は実に厳しく晩年の荷風を批難している内容なのだが、荷風を責めている理由として次の点を挙げている。第一に荷風の文学の真髄は随筆にあるとし、優れた随筆家の条件の一つである本を読む習性が、晩年の荷風からは失われていたことを挙げ、第二に晩年の荷風には、生活にも書いた文章からも、精神の柔軟性、変わり身の妙が失われていた点を挙げている。

「敗荷落日」は、荷風の精神が戦争による断絶の時間に堪えなかったのかも知れない点や、和朝流の随筆というものが戦後文学の場で運動するに適格でなかったかも知れない点を考慮しつつも、
「日はすでに落ちた。もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの、一箇の怠惰な老人の末路のごときには、わたしは一灯をささげるゆかりも無い」という容赦ない結びで終わっている。

この文章には、石川淳がいかに荷風の文学を愛していたか、またそれ故の悔しさを見ることもできるが、同時に、自己の文学に対する倦むことの無い「精神の運動」の決意が感じられる。

石川淳は七十歳を超えて大作「狂風記」を書き上げ、八十歳を超えてなお「六道遊行」を書き上げ、亡くなるまで「蛇の道」の連載に携わっていた。いずれも老大家にありがちな後日談とか、小品ではなく、たっぷりと文学の毒を孕んだ作品であった。

享年八十八歳。この老人から、太陽のエネルギーは尽きなかった。


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