「千と千尋の神隠し」にみる「名こそ惜しけれ」の精神


宮崎 駿監督の「千と千尋の神隠し」は、三ヶ月に一度ぐらいの頻度で見直したくなる映画の一つだ。

絵の美しさに惹かれているというのも理由の一つだ。

九十年代のバブルの時代に取り残されたテーマパークという意味深で巧みな設定のもとに、爽やかな緑の草原、黄色・赤を基調とした奇体な趣きで彩られた食べ物屋、その合間から見える非現実的なまでに青い空。そして、タルコフスキーの映画に出てきそうな水面を走る片道行きの戻らない電車。それらが混然となった世界に魅了されてしまう。

もう一つの理由は、この映画の持つ強いメッセージ。

「自分の名前を大事にね」――銭婆が千尋に向かっていうこの言葉。

千尋の迷い込んだ世界では、名前が、自己の存在証明の重要な意味を持つ。

千尋が自分の本当の名前を奪われ湯婆婆に支配されそうになり、やがて自分の名前を取り戻して元気になっていくように。

ハクが千尋の告白を受け、「饒速水琥珀主」という自分の名前を思い出し、月夜にキラキラと龍の鱗を散らしながら、本当の自分自身を取り戻していくように。

(しかし、川で溺れた少女と、彼女を浅瀬に運んで救った川――マンションを建てるため埋め立てられてもう存在しない川――が再びめぐり合う世界というのは、せつない)

宮崎 駿監督も対談したことのある歴史小説家 司馬遼太郎(1996年没)は、「名前」について、こんな言葉を残している。

「…ヨーロッパ人からみると、日本人には倫理がないということになります。…もちろん全くそんなことはありません。…ひとことで言うと『名こそ惜しけれ』という言葉になります。よく坂東武者が使う言葉ですが、これは自分という存在そのものにかけて恥ずかしいことはできないという意味であります。…おそらく今後の日本は世界に対していろいろなアクションを起こしたり、リアクションを受けたりすることになります。そのとき、『名こそ惜しけれ』とさえ思えばいいですね。…ヨーロッパで成立したキリスト教的な倫理体系に、このひとことで対抗できます。」(司馬遼太郎全講演4 朝日文庫)

宮崎 駿監督のコメント等を読んでみても、この作品の背景には司馬遼太郎が日本人に向けたメッセージとほぼ同等の強いメッセージが感じられる。

ただ、『名こそ惜しけれ』という『行動規範』の実現は容易ではないのも事実。
現実の世界にもまれながら、三ヶ月に一度、美しい絵と物語に包まれたこの強いメッセージを、千尋の頑張りを通して再確認したいのかもしれない。


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