大岡昇平の「野火」



好きな小説に、大岡昇平の「野火」がある。

終戦記念日が近いからという訳ではないが、毎年、蒸し暑い8月の季節になると、不思議とこの小説が読みたくなる。

太平洋戦争末期、フィリピンのレイテ島で、敗北が濃厚な日本軍から、病気のため、追い出された一人の知識人が、飢えに苦しみながら、熱帯の山野をさまよう。

そこで彼が体験する戦場は、人が人を喰うという凄惨なものなのだが、この主人公が最後まで人としての尊厳を守るように、この小説の文章は、端正な美しさを失わない。

その最も端的な部分は、主人公が屍体を喰らおうとして剣を抜いた右手を、無意識に止めた左手についての文章である。

「私が生まれてから三十年以上、日々の仕事を受け持ってきた右手は、皮膚も厚く関節も太いが、甘やかされ、怠けた左手は、長くしなやかで、美しい。左手は私の肉体の中で、私の最も自負している部分である。」

この文章を、ふと思い浮かべると、つい、自分の左手を、右手と比較しながら眺めている自分に気づく。

自分のなかにも神は宿っているのだろうかと思いながら。


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