谷崎潤一郎の小説


女性崇拝、快楽の追求、高い芸術性。谷崎の小説は、大人の読み物だ。




1.生立ち

1886年(明治19年)7月24日、東京市日本橋区蠣殻町に生まれる。父が相場師だったことから、家計の浮き沈みが激しく、小学校卒業時には廃学まで余儀なくされるところだったが、潤一郎の秀才を惜しんだ周囲の援助により中学校に進学。谷崎は、築地精養軒の経営者の家に家庭教師として住み込み、学校に通うこととなった。
この辺の事情は谷崎の小説「神童」に詳しい。
1908年(明治41年)東京帝国大学文科大学国文科に入学。
1910年(明治43年)に、戯曲「誕生」、小説「刺青」「麒麟」を発表。翌年、「三田文学」誌上で永井荷風に激賞され、文壇的地位を確立。谷崎の書く小説は、当時、流行していた自然主義文学とは傾向を異にした華麗で妖艶な小説だった。
この辺の事情は谷崎の小説「異端者の悲しみ」、回想「青春物語」に詳しい。

2.谷崎文学の特徴

@ 女性崇拝

処女作「刺青」から晩年の「鍵」「瘋癲老人日記」に至るまでの約五十年余り、谷崎文学の中心には、常に女性への崇拝、正確に言えば、美しい女性の肉体への崇拝があった。ある意味、これだけ主題が明確な小説家はいないし、半世紀に渡り同じ一つのテーマで、執拗かつ継続的に、次々と姿形を変え、妖しい物語を作り続けられた谷崎の創作力には感嘆すべきものがある。

A 快楽の追求

性的快楽を描かれた作品は多くあり、中にはかなり際どいものもあるが、それはどちらかと言うと例外に近い。殆どが美しい文章で描かれており、また、巧みに隠されている(そちらの方がより淫靡といえるかも)。

また、これと関連して他人の侮蔑から受ける快感、いわゆるマゾヒティックな快楽についても、ほとんど何らかの形で作品に描かれている。

美食・美しい服装からもたらされる快楽も多く描かれている。中でも食への快楽と性的快楽がミックスされた小説「美食倶楽部」は印象に残っている。

B 高い芸術性

大正時代の小説家の特徴の一つは、小説家自身が自らの高い芸術性を十分に意識していた点があげられる。谷崎もその一人で、自らの作品を「甘美にして芳烈なる芸術」(異端者の悲しみ)と言ってはばからなかった。

実際にはったりではなく、三島由紀夫に「大谷崎」と言わしめたように、谷崎の小説には高い芸術性がにじんでいる。

一つには、文章の完全なこと。これは永井荷風が指摘した点でもある。有名な日本文学研究家であるドナルド・キーンが、文章の読みやすさで言下にあげたが谷崎であった。谷崎の文章は、江戸時代まで熟成された和漢混合文の魅力を保ちながら、同時に英文法を骨格とする明晰な文章であった。後者においてはともかく、このような二つの要素を兼ね備えた文章を書いた小説家は、数えるほどしかいなかったし、今ではもう丸谷才一氏ぐらいしか思い浮かばない。

二つ目は、多彩な文体で多くの作品を描いたということ。まるで漢文そのものの戯曲「誕生」。ひらがなづくしの「盲目物語」。句読点を省いた連綿と続く文章の「春琴抄」。磨きぬかれた関西弁が妖しさを醸しだす「卍」。秘密の日記を浮かびあがるカタカナ文字で表現した「鍵」「瘋癲老人日記」。谷崎は文体の持つ力を十分に意識し、積極的に活用した小説家と言えるだろう。

三つ目は、古典に深く回帰した作品を多く描いたということ。自らの創造力を過去に遡らせるということは、そこまで遡るだけの能力がなければ到底無理なことなのであって、古典文学さらに言えばひとつの文化への深い理解とその教養がなければ、そのような作品を創造することはできない。
関東大震災の後、谷崎は関西へ移住することになるが、この後、谷崎の作品は、それまでから一変し、古典に深く根づいたものとなる。「吉野葛」から始まり、「盲目物語」「葦刈」「春琴抄」「蓼食う虫」「卍」そして「細雪」と、ほとんど谷崎の代表的な作品といえるものばかりだ。
晩年の谷崎が「源氏物語」の翻訳など、ますます古典への傾斜を深くしていったことは、震災そして敗戦によって急速に崩壊していく日本の古典性と西洋化の波が背景にあったのかもしれない。

C マイナーポエットな作品

谷崎の特徴に、芸術性が高い作品を作りながらも、常に大衆に愛される小説を書いていたということがある。読んで単純に楽しめるもの。これらは以外にも、宝石が散りばめられたようなマイナーポエットの小作品群に多い。
例えば江戸川乱歩にも激賞された推理小説としての「途上」「白晝鬼語」。クリスティの「アクロイド殺し」よりも、心理描写の深い「私」。怪奇物として「人面疽」。
少年物として不気味な味わいがある「小さな王国」「或る少年の怯れ」。谷崎の興味深い少年時代を描いた「神童」。およそ常人であれば書くことを思いつかないであろう「過酸化マンガン水の夢」。耽美的色合いが強い「人魚の嘆き」「魔術師」「天鵞絨の夢」(中途で終了してしまったが)。
ここではとても紹介しきれないが、その他にも実に読み物として面白いものが谷崎の小作品群にはある。


3.谷崎の本

私が一番最初に読んだ谷崎の本は、新潮文庫「刺青・秘密」だった。「刺青」「少年」「幇間」「秘密」「異端者の悲しみ」「二人の稚児」と、初期の谷崎の代表的な作品が並んでいて、よく読んだせいか、今ではあの赤い表紙もボロボロになっている。
しかし、私が谷崎の作品に取りつかれたきっかけとなったのは、中央公論社 棟方志功 装丁の「谷崎潤一郎全集」だった。この全集で、谷崎の作品を創作順に有名なものから無名のものまで、読むことができた。今は中公文庫で「潤一郎ラビリンス」と題して、前記2のCのような作品を配本しているが、当時は全集でなければ、このような作品を読むことができなかった。硬い品のある装丁の本に、これら妖しい作品が収められていたせいか、一種裏切られたような意外感で熱に浮かされたように全集を読んでいったのを覚えている。

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