ジョゼフは、さっきからずっと目の前を横切る蟻の列を眺めていた。右から左へ行くものと、その反対に右へと歩いていくもの。1匹で行くもの、2、3匹、あるいはもう少し大きなグループで一塊になっているもの。一見、統制がとれてはいないように見えて、それでいて、全体では、その目的(餌を巣に運ぶ)は、完全に達成されている。
 そして、その行列は全く途切れることもない。
 その蟻の行列を俯せになってジョゼフは、眺めていた。一昨日降った雨のせいで着ているものがじんわりと湿ってジョゼフの神経をいらだたせるにもかかわらず、ジョゼフは、蟻の行列をもう1時間近く眺めているのだった。ジオンでは、昆虫にあまりに厳格に対処したせいで博物館でしか見られない蟻をこうやって目の前で見られることが地球に来ていることなのだと思った。しかし、何も好き好んで蟻を眺めているわけではもちろんなかった。
 ジョゼフは、顔をゆっくりと、そう酷くゆっくりと上げて、目の前を横切る道路の方に顔を向けた。急いであげると、蟻を驚かせてしまいそうだったし、危険を呼び込むかもしれなかったからだ。けれど、実際には、蟻達はジョゼフのことを一向に気に掛けている様子はなかった。そうやって顔をあげると疎らな木々の間を通して危険がいっぱいの道路が見通せた。
 少し離れた道路には、ジョゼフ達新兵を率いていたオハラ軍曹が、ジョゼフと同じように俯せになっているのが木々の合間を通して見えた。真ん前の道路には、無線機を背負ったローウェル伍長が、これも俯せになっている。
 2人が、ジョゼフと決定的に違っているところは、2人がもう生きてはいないということだった。それは、2人の身体から溢れ出た信じられないほどの量の血(少なくともジョゼフにとっては初めて見る量の血)と、ぴくりとも動かないことからも疑いはなかった。軍曹に至っては、まともに頭に命中弾を喰らったのだから疑う余地は少しもなかった。
 同じ理由で、もときた道を全速力で駆け戻ろうとして、やはり撃たれてしまった新兵仲間のレディルも死んでいるに違いなかった。ここからは、もうほとんどミニカーぐらいの大きさにしか見えなかったが、レディルも道路に転がってから少しだって動きはしなかった。
 生き残ったのは、新兵のリーダー格、レンフトのとっさの命令にしたがって道路脇の林に逃げ込んだ7人だった。レディルは。残念なことにパニックに陥ってしまって一目散に元来た道を走りだしてしまったのだ。
 しかし、撃たれたのは3人だけではなかった。もう1人、林に逃げ込むときにリックルズが、腕を撃たれていた。しばらく、いや随分とだったろうか?リックルズは、痛みを訴えてめそめそ泣いていたのだけれど、レンフトに、声を出していると狙撃されるぞ、といわれて泣くのをやめていた。声が聞こえるほど敵が近くにいるなんてことはあるわけないと思ったジョゼフだったが、気の滅入る泣き声を聞かずにすむわけだったから、大いにレンフトの注意に感謝した。
 そんなことを考えながらもジョゼフは、少し視線を上げ、道路の向こうに広がる小さな町を眺めて自分達をこの状態に陥れた元凶を探そうと何度目かの努力をした。怪しい建物はたくさんあったけれど、どれが実際にそうなのかは全く見当がつかなかった。こういう時にこそ経験がものを言うのだろうけれど、ジョゼフ達には、まさにそれが欠けていた。どの建物も、木陰もちょっとした茂みにでさえ敵が潜んでいるように思え、どこかに絞ることができなかった。
 敵を探すことを諦めたジョゼフは、再び視線を蟻に戻した。ちょうど目の前を、何か大きなものを小さな顎でしっかり挟んだ蟻が通りかかった。大きな荷物、蟻にとっては大事なエサなのだろう、それを一生懸命運んでいる。自分達も、背中に大きな荷物を背負わされている。生き残るためには、必要な装備品ではあったけれど、ジョゼフ達は、半ば強制されて背負わされていた。軍曹が、今日の偵察は行軍の訓練も兼ねているのだと言って、偵察にはおよそ不必要な装備品も持つように命令したせいでジョゼフ達は、20キロ近い背嚢を背負っていた。
 ふと蟻達も強制されてるのだろうか?という疑問と何故自分がこんなところにいるのか?という疑問が同時に沸き上がってきた。
 
 ジョゼフが、軍に入隊したのは、ルウム戦役がちょうど大勝利(辛勝だったことは戦争が終わってから知った)のうちに終わったときだった。大学を卒業して、社会人になったばかりのジョゼフは、街頭のテレビでギレン閣下が演説するのを聞いてその足ですぐに軍の志願兵を募っている施設に駆け込んだのだった。
 ザクが、フォーメーションを組んで連邦軍の戦艦に襲いかかる様は、確かに感動的ですらあり、「国民よ、今こそ決戦の時である」とギレン閣下の熱い演説を聞かされれば、宇宙国家の一員である以上なにかをしなければならないと思うのは、至極当然のことのように思えたのだ。その頃は、地球から宇宙市民を支配しようとする地球連邦政府を何とかしなければと素直に思ってもいた。そして、ザクは無敵に思えた。
 しかし、それが間違いだと分かるには幾らも掛からなかった。漠然と、志願すればザクのパイロットになって闘うのだと思っていたジョゼフが、一般兵科、それも歩兵としての戦闘訓練を申し渡されたのは志願して3日目のことだった。考えてみれば、当たり前のことだった。なんの特技もない自分が、最新兵器のザクのパイロットになどなれるどおりは全くなかった。
 かくして規定の訓練期間(戦時でそれはかなり圧縮されていた)を、終えたジョゼフは、その頃大方ケリがついたといわれていた地球に送り込まれたのだった。ジョゼフが送り込まれることになったのは、北米戦線だった。他の戦線に行くことになった同じ新兵仲間からは、随分と羨ましがられた。なにしろ、北米は、ガルマ大佐が直接支配下に治めている地域だったからだ。ガルマ大佐は、大佐とはいっても正統なザビ家の一員であり、そのガルマ大佐が、布陣している北米大陸は、もっとも安全なのだと言われていたからだ。
 しかし、それも間違いだと今日わかった。安全なのは、ガルマ大佐のいる後方で、前線に直接出る自分達は、常に危険に晒されるのだということを今日、思い知らされたのだった。しかも、地球に送り込まれてから1週間と経たないうちに思い知らされたのだった。
 
 間延びた銃声が、ジョゼフの思考を絶った。時折、思い出したように敵は、林の中に銃弾を撃ち込んできた。それは、狙いを付けて撃ってきているのではなく、遊び半分で撃ってきているらしかった。それは、今のところ成功している。ジョゼフ達は、びびって全く動けないでいるのだから。
 林の中を逃げればよさそうに思うかもしれなかったが、地形がそれをさせなかった。林の中は、道路の反対側へは、すぐに傾斜で、もちろんそれは登ることが十分に可能だったが、上に行くほど木々は疎らになり登りきったところは開けた台地になっていて、敵の狙撃に曝されるのは疑いようがなかった。その台地を横切って向こう側の下り傾斜に潜り込むにはどう見てもたっぷり10秒はかかる。その間にいったい何人が狙撃手の餌食になるかと思うととても走って横切ろうなどとは思わなかった。林伝いに逃げようにも林そのものの横の広がりは、300メートルほどしかなく、その両端からは見渡しのいい芝が広がっているに過ぎない。ようは、林とはいっても住宅街に緑の景観を与えるために人工的に作られたものでしかないからだ。
 
 人のやって来る気配を感じて振り返ったジョゼフは、レンフトが腰を屈めてあたりに注意を払いながらやって来るのが解った。
「ジョゼフ、このままじゃ埒があかないぜ。どうにかしよう」
 レンフトは、ジョゼフの横まで来ると片ひざを付いて小声でいった。
「どうにかたって・・・。俺達には敵がどこにいるかさえわからないんだ。どうしようもない」
 ジョゼフは、腹ばいになったまま答えた。
こんなとき、軍曹ならどうしたのだろうと思う。軍曹は出発前「今から俺が、お前達役立たずにちったぁ自分のケツぐらいは拭ける程度になれるようにいろいろ教えてやる。だから、だ、生き残りたいやつは俺のやることをまねして、命令したことはなぜか?なんて思わないでとにかくやるんだ!わかったか?ぼんくらども!」と大声で喚いていた。実際、軍曹は、ジョゼフ達にとって役立つことをいっぱい知っていたのだろうし、それは身に付けねばならないことでもあったのだろうが、軍曹は、そういったものをほとんど教えることがないまま、教えることが永遠にできなくなってしまった。
「俺に考えがある」
「考え?」
「そうだ、敵に残ったもので一斉に射撃を掛けて、その間に無線機をとってくるんだ。で、無線機で近くにいるザクに連絡をとる。それで、このくそったれな場所とはさよならだ!どうだ?」
「だけど、敵は?」
「たぶん、あそこだ。あの塔だと思う」
 梢や葉を通してレンフトの指した先には、教会らしい建物から上に延びた塔が見て取れた。塔自体は、それほど高いものではなかったが、ジョゼフ達が歩いてきた道やこの林を見渡すには絶好の位置だった。林からは、300メートルほどだろうか。
「でも違ったら?」
「いや、さっきの銃撃のときにアンクリッチが、硝煙が上がるのを見たらしい」
「けど・・・」
「大丈夫、お前の足の速さならな。それに俺達が一斉射撃してるんだ。敵だって狙いなんかつけられるもんか」
 それは、まさに衝撃的な発言だった。
「俺が行くのか?」
「他に誰が適任だってんだ?残った連中の中じゃお前が1番足が速いじゃないか!」
 そのことは確かに本当だった。学生の頃から短距離で負けたことはなかった。特別な練習なんかしなくても大抵の陸上部の奴等よりもジョゼフは早く走ることができたし、それが自慢でもあった。
「他のみんなにも伝えてくるから、合図するまで待て。合図は一斉銃撃だ。頼んだぞ」
それだけ言うとレンフトは、ジョゼフの返事も聞かずにゆっくりと立ち上がると歩き去っていった。
 
 ジョゼフは、目の前の伍長の死体を恨めしそうに見た。あんたが死ななきゃ、俺は・・・。伍長に恨みの一言も聞かせたかったが、それは不可能なのだ。ふと、視線を落とすとジョゼフの身に突然振りかかった生命の危機にかかわりもなく、蟻が相変わらず行進を続けていた。
 大量生産された工業品のように全く同じ姿形の小さな蟻が次から次へとやって来る。蟻達は、何のために自分が行進しているのかわかっているのだろうか?そして、同じ質問をジョゼフは、自分自身にも投げ掛けた。
 ジョゼフは、その答えを考えながらぼんやりと1匹の蟻を目で追った。
 蟻は、6本の足を巧みに使ってどんな障害物でも乗り越えていく。頭に付けた2本の触覚を小刻みに動かし、時には前からやって来た仲間にその触覚で挨拶しながら、それでもドンドン進んでいく。その行き先がどこなのか、解らなかったが、行列からはみ出すこともなくやがてその小さな蟻は、他の蟻達に紛れてしまった。
 自分は、蟻が障害物を乗り越えていくようにこの危機をうまく乗り越えられるだろうか?自問してみたが、もちろん答えなどでるわけはなかった。
 
「撃てッ!!」
 ジョゼフは、レンフトの大声で再び現実に呼び戻された。同時に、銃撃が始まる。敵が、反撃してきているのかどうかは解らなかった。ほんの僅かな時間躊躇して、ジョゼフは、その場から一気に跳ね起きると走り出そうとした。しかし、背中に背負った雑多な装備品が邪魔になることに気が付いて慌ててそれらを外した。幾らもかからなかったはずだがレンフトから「ジョゼ〜〜フッ!」と怒声が放たれた。
 その時には、ジョゼフは装備を外し終わっていたが、先に道路に飛び出したのはレンフト自身だった。ジョゼフの10メートルほど左から飛びだしたレンフトは、脱兎のごとく伍長に駆け寄ると無線機を外し始めた。その間も、味方からの銃撃は塔に向けられて続けられていた。塔は、銃撃を受けて砂煙に包まれたようになった。
 レンフトは、焦っているのだろう、無線を外すのに手間取っている。手伝うべきか?それとも危険に晒されるのは1人でいいのか?自分も銃撃に加わったほうがいいのだろうか?考えた時間は僅かだった。
 ジョゼフは、自分も林から跳びだした。ほんの5メートル。飛び出した瞬間、レンフトの頭からケブラー繊維製のヘルメットが飛び上がった。同時にレンフトの大柄な体が道路に放りだされるように転がった。それを踏んづけないように飛び越えて伍長の血溜まりへ着地したジョゼフは、もう少しで転びそうになった。時間が経って粘稠性を増していた血のせいだった。伍長の背中の無線機にそのせいでしたたかに肘をぶつけたが、痛みなんか感じている暇はなかった。後で、肘が思いきり腫れ上がったのだけれど、その時は痛みなど感じなかった。
 留め金を一気に外して無線機を伍長の背中からはぎ取った瞬間、伍長のからだがビクッと震えた。それが、狙撃兵が撃った外れ弾の着弾による衝撃だとわかったのは、町の方に背中を向けて走り出したときだった。狙撃兵は、まだ生きていてジョゼフをも餌食にしようとしているのだ。
 ちらりとレンフトに視線をやるが、生死は確認できなかった。
 無線機を脇に抱えて、飛ぶように走りだしたジョゼフは、再び林に向かった。最初に向かったときもそうだったが、今度は前にも増して遠く感じ、そして自分の足は回ってくれなかった。ようやく、といっても3秒とはかかってはいない、林の中に飛び込んだとき不気味な飛翔音とともに更に1発の銃弾がジョゼフを掠めた。
 元いたところに飛び込み、自分が生きていることを確認する。撃たれたところは、どこにもないことも確かめた。そして、弾む息を整えようとした。どんな競争でも、これほどまでに息が乱れたりはしなかったはずだと思ったジョゼフの隣にどさっという大きな音が転がり込んできて、ジョゼフは、心臓が口から飛びだすほど驚かされた。
 それは、頭から血を流したレンフトだった。心臓が口から飛び出そうになるほど驚いたジョゼフが口をぱくぱくさせるのを見たレンフトがジョゼフと同じように息を弾ませながらいった。
「ヘルメットを掠めただけさ。だからいったろう?狙いなんかつけられるはずがないって」
 顔面を蒼白にしたレンフトが、片目をつぶって見せ、口元を引きつらせた。本人は、恐らく笑ったつもりなのだろうがとてもそうは見えなかった。
 ジョゼフも同じように引きつった笑いを返した。とにかく、無線機は回収できたのだ。
 
 2機のザクがやって来たのはそれから1時間あまり後のことだった。ザクは、たった1発でその塔を粉砕したけれど、その時まで連邦軍の狙撃兵がそこに残っていたとは思えなかった。
 
 ザクがやって来るまでの間、ジョゼフは、ずっと蟻を眺めていた。蟻を眺めながらジョゼフは、レンフトのヘルメットが飛び上がった瞬間、自分の考えていたことが全然別なことだったことを思ってほんの少し笑えそうになった。ジョゼフは、その瞬間、蟻の行列を踏ん付けたんじゃないだろうな?と考えたていたのだ。考えてみればずいぶんな話に違いなかった。仲間の命よりも蟻の方を心配したのだから。
 もとの位置に戻ってそれを確認したのは、レンフトが無線で救援を要請してしばらく経ってからだった。
 蟻の行列は、ジョゼフにもレンフトにも踏ん付けられてはいなかった。そして、初めにジョゼフが見たときと同じように蟻は、右から左、左から右へと歩き続けていた。
 そして、ふと解った。こいつらは、生きるために歩いている、と。そしてジョゼフは、自分も同じことのために闘っていることが解った。ジオンの大義や宇宙国家の独立、腐った連邦への制裁、それらはジョゼフにとってはどうでもいいことだった。そんなものは、ジョゼフの命を懸けるには全く値しない。そうではあっても、ジョゼフは、軍隊という組織の中に身を置いてしまったのだ。そして、軍という組織の中にいる間は、蟻と同じように命じられたことのために歩いていかなければならないのだ。
 ただ、蟻と違うところがるとすれば、ジョゼフ達は、残った仲間とともに生き残ったことを喜びあえることだろう。しかし、すぐに、いや、と思い直した。蟻達も巣に帰ったら以外とよろしくやってるのかもしれないと。
 ザクがやって来て、全てが終わってしまった戦場でジョゼフは、ゆっくりと立ち上がって道路へと出た。今度は、ちゃんと意識して蟻の行列を踏ん付けないように胯いで。
 
0079 北米での話である