最後の手紙


 その日もマリアは、いつもと同じように目を覚ました。一応目覚ましはセットしてあったが、そのアラームが鳴るずっと前からマリアは、目を覚ましていた。ここのところ、いや戦争が終わるころからずっと眠りが浅いせいだった。もっとも、戦争は、マリアにとってあまりにも突然終わってしまったから、終戦が近付くのを知ってそうなったのではない。今から思えば、その頃からだったと思うだけだ。
 アラームが鳴る少し前にスゥイッチを止めたマリアは、ベッドから抜け出した。髪をかき上げて溜め息をつく。そして、いつもと同じように熱いシャワーを浴びるためにバスルームに向かった。
 いつもより少し長めにシャワーを浴びたマリアは、少し大きめのバスタオルで水分をふき取るとそのバスタオルをそのまま身体に巻き付けた。1人で暮らしているから誰に見られるわけでもなかったけれど、それは若い女としての恥じらいのようなものだった。それに、2月の気温は、たとえコロニーであっても季節感を感じさせるために低くしてあるからでもあった。
 もう1枚の小さめのタオルで髪の水分をしっかりと取ると、マリアは、ひんやりしたフローリングの感触を足の裏に感じながらゆっくりとリビングを歩いてクローゼットのところまでいき、バスタオルを足元に落とし下着を付けた。金曜だったけれど、特にどれかを選んで着けたりはしなかった。ストッキングもただ手近なものを履いただけだった。
 スーツも昨日とは違うものを選んだけれど、ただ漠然といくつかあるものから選んだだけだった。
 そして、ドレッサーの小さなイスに腰を下ろすとマリアは、化粧をいつもと同じ手順で始めた。化粧をしなくてもマリアは、十分に美人の部類に入る顔立ちだったけれど、外出するための儀式のようなものだった。最後にルージュをひくとマリアは、鏡の中の自分を見つめた。鏡の中には、ここ何日か見慣れた疲れた顔をしている自分がいた。碧い瞳の下にはもうだいぶ薄くなったとはいえクマがうっすらと残っていたし、化粧のノリだって良いわけではなかった。ドライヤーで乾かし、櫛を通した金髪の髪も丁寧にまとめてあったが、少し痛みが目立つのは気のせいではなかった。
(はあっ)
 深く短い溜め息を付くとマリアは、サイドボードからブランドのバックを取り、それを肩に掛けた。少し視線を先にやるとそこにはまだ開けていない手紙が1通おいてあった。もう1週間も前からそのままにしてある手紙だった。しばらくどうしようかと迷ってからマリアは、思い切ってその手紙を手にするとバックの中に乱暴に突っ込んだ。そして、ベージュのローヒールを履くとドアを開けた。空(というよりは中心軸)を見上げると人工太陽が朝の陽射しを街に投げ掛けていた。きっと、今日は一日晴れなのだろう、そんなことを思いながらマリアは、ドアに鍵をかけると何の変哲もない一日を始めるために歩き始めた。
 
 戦争が、終わって2ヶ月あまりが過ぎていたけれど、マリアに限って言えば、それほど多く自分の生活に変化があったわけではなかった。それは、戦争が始まる前もそうだったし、戦争中もそうだった。
 戦争が、始まったからといって何かが不足したり欠乏したりすることはなかったし、実際にマリアが、本当に困るようなことは何もなかった。政府は、戦争協力を求めたけれど、経済活動が続けられている以上、それほど日常が変わることはなかった。そのことは、ジオン(今はもうサイドの1つにすぎなかったけれど)が、戦争に負けても変わらなかった。実際に、ジオンが、戦場になったわけではなかったから酷く戦争をしているという実感に欠けていたせいでもあったし、コロニー自体が非常に独立性の高いシステムを持つ以上それはなおさらだった。
 唯一、戦争中に困ったことといえば、マリアが気に入って使っている地球製の化粧品が地球から送られてこなくなったことくらいだった。
 確かに、日常の中では戦争に対する報道が頻繁にされ、ああ、戦争をしてるんだな、という程度の認識はあったけれど、マリアのように特別注意を払わない種類の人たちにとっては、戦争は遠い別世界の話であるのは仕方がなかった。戦況に関する報道は、どれも楽観的だったし、戦場は遥か彼方だったからだ。
 戦争の序盤(さすがに開戦を知ったときは驚かされた)から、中盤にかけては本当にマリアにとってはどうでもいい遠い世界の話だった。
 そんなマリアにも戦争を実感させられることが戦争も終盤に入ろうかというときなってあった。それは、去年の9月の第2週のことだった。大学生時代から付き合っている恋人のアランから召集令状が来たという電話があったのだ。
 それでも、マリアには、それで何かが変わるような気はしなかった。戦争が始まる何年も前からジオンは、徴兵制度をとっていたし、それは宇宙民族が独立するためには必要な制度でもあるとマリアも何となく思っていたからだ。もっとも、マリアは、サイド3、つまりジオンが独立することにそれほど興味があったわけではなかった。
 開戦からこっち招集令状が、健康な成人男子に送られ始めたことも知っていたし、実際に職場の人間や得意先の中からも何人もが応召していた。また大学を卒業するか成人になると徴兵予備調査が行われていたから、それなりに健康な男性は、この戦争が始まってからは、いつ徴兵されてもおかしくはなかったということもあった。そういう意味ではアランはスポーツマンであり、並の男よりは軍の役に立ちそうでもあった。ただ漠然と、アランに召集令状が来なければいいのにとは思っていたのかもしれなかったが、来たからといって何か特別ショックに思うことはなかった。ジオンの国民である以上、それは全く特別なことではなかったからだ。
 だからアランが応召する前日の最後のデートのときも何も特別な感慨はなかった。ちょっと長期の出張に行く、そんな程度にしかマリアは感じられなかった。コロニー世代のマリアにとって、戦争とは教科書の中の遠い過去の出来事でしかなかったからどうにもこうにもイメージが上手くできなせいでもあった。そのことは、アランにとっても同じだった。だからその日のデートもいつものように待ち合わせをして食事をし、アランのアパートメントで夜を過ごした。
 何も変わらない、そう思えたのは最初の1週間だけだった。5年近く付き合い、最初の頃の情熱はとっくになくなってはいたけれど、マリアにとってアランは空気のような存在になっていたのだった。あるのは当たり前だったけれど、なくなっては困る、アランが、そういう存在になっていることに気が付いたのだった。
 アランが応召して10日目の夜、マリアは、大人になって初めて寂しくて涙を流した。同時に、自分がどれだけアランのことを愛しているのかにも気付いたのだ。応召しどこかの教練部隊に所属した(軍事機密らしくどんな部隊に所属したのかは分からなかった)アランからは、2、3日に1度はメールが来たし、1週間に1度は手紙も送られてきた。アランも同じように思っているらしく、自分が頑張っているというようなことを書いた後に早く逢いたいとか自分の気持ちに気が付いたというようなことが書かれていた。
 同じ気持ちでいるということが知れて嬉しかったけれどそれでも、逢えない寂しさは紛れることはなかった。ここ1年ほどは、それほど頻繁にあっていたわけではなかったけれど、それもいつでも逢えるのだという気持ちの裏返しでしかなかったということに今さらながらに気が付いたのだった。
 11月になってアランは、どこかの実戦部隊に配備されたらしく、メールは、送られてくることはなくなった。手紙だけが、2、3週間ごとに送られてくるだけになった。マリアも返事を書きたかったが、アランがどの部隊に所属しているのか分からずにその願いがかなうことはなかった。戦争が終わるまでにマリアは、前線に出たアランから3通の手紙を受け取った。そのどれにも、どれだけ自分がマリアのことを愛しているのかということが書かれていた。そして、必ず生きて戻るとも書かれていた。
 戦争は、2人の気持ちをもっと確かな形にするための良い機会だったのだと思いながらマリアもそのことを疑ったりはしなかった。
 ずっと優勢だと聞かされていた戦争が、突然の敗戦という形で終わるまでは。
 
 サイド3が、直接戦火に曝されなかったことも相まってその突然の報道は、マリアを大いに驚かせた。戦争そのものにさほど興味を持たない他のサイド3の住民にとってもそれは同じことだった。
 戦争が、地球北半球の季節で秋に入って以降、ずっとジオンにとって不利なまま推移したことやソロモンが陥落したこと、ア・バオア・クーも陥落しそれと同時にザビ家の人間が全て戦死したこと、それに伴って本当に多くの兵士達の尊い命が失われたこともマリアは、戦後になって初めて知ったのだ。完全な報道管制下で戦争が報道されていたことなど全く知らなかったマリアにとってはテレビや新聞、その他のマスメディアが知らせてくれる情報が全てだった。
 それは、マリアのように戦争に興味のない若い女性にとって至極当たり前のことだった。
 確かに、マリアの周りにもある日突然、身内や友人の戦死公報が届けられる人が全くいなかったわけではなかったけれどそういったことが戦争なのだと漠然と思うに過ぎなかった。それに、マリアに限っていえばそれほど身近にそういった人がいなかったせいでもあった。それに、アランに限って突然自分の前からいなくなるようなことはないと信じていたからでもあった。もちろん、根拠はどこにもなかったけれど。
 
 手紙が途切れたまま戦争が、ジオンの敗戦という形で終わり、多くの兵士達が復員してくるようになってもアランは、マリアの元には戻ってこなかったし、メールや手紙が来ることもなかった。それでも、マリアは、最悪の結果を想像することができなかった。いや、したくなかったというべきかもしれなかった。仕事に没頭することでできるだけアランが何故帰ってこないのかということを考えないようにしていた。
 そんな中、戦争が終わって1月あまりが過ぎるとネット上で戦争に関する様々な情報が公開されるようになった。以前なら全く興味を示さなかったであろうそういった情報にマリアは必死でアクセスをした。
 様々な情報に触れていく過程でマリアは、戦争がどういったものであったか(それは多少連邦軍側に立った内容になっているものがほとんどだったのだけれど)を知ることになった。それと同時にどれだけ自分が戦争に無関心であったかも。
 そういった公開情報の中の1つに、行方不明者の検索(というより部隊名簿の一般公開といったほうが正しかったかもしれない)があった。そのサービスを通じてマリアは、アランが、モビルスーツパイロットとしての訓練を受けていたことやザクのパイロットとして実戦部隊に配備されア・バオア・クーの防衛任務についていたことを知った。そして、所属していた部隊が、全滅していたことも。
 アランの名前が並んでいるページの兵士達の名前の欄の横には軒並み戦死と記されていた。そして、アランの名前の横にも。
 薄々気が付いてはいたけれど、実際に目にしてみるとそれは、とてつもない衝撃としてマリアに襲いかかってきた。何日も何日も涙が止まらなかった。ほんの半年前まではそばにいて当たり前だったアランが、永遠に姿を現すことがなくなったという事実は、分かってはいてもマリアにとってそれほどすぐに受け入れられることではなかったのだ。
 仕事を休み、涙が涸れるまで1週間がかかり、なんとか自分の気持ちに整理をつけるのにもう1週間が必要だった。
 
 そんなときだった。
 4通目の手紙がマリアの元に届けられたのは。
 消印もなく、いつ書かれたのかは全く分からなかったけれどそれは、戦死する直前に書かれた手紙に違いなかった。3通目の手紙の消印とア・バオア・クーで戦闘が行われた日付を考えればそうに違いなかった。そして、自分が死んでしまうことなど信じずに書かれた手紙にも違いなかった。
 戦争が終わって2ヶ月近くも経って届けられた手紙をマリアは、なんとなく開けることができなかった。ようやく、整理のついた自分の気持ちがまた揺らぐのが怖かったし、いまさら読んでもどうしようもないことも確かだったからだ。
 けれど、かといって捨てることもできずに1週間が過ぎたのだ。
 
 いつも通りのバスに乗り、いつもと同じ時間にオフィスに着いたマリアは、デスクに座っても手紙のことを考えてぼんやりしていた。この2、3日は努めて手紙のことは考えないようにしていたのだけれど今日は、そうできなかった。
 上司が、時折こちらを眺めては短いため息をつくのも十分に承知していたけれど気にはしなかった。どうせ直接は何も言えはしない上司なのだ。それに、自分が戦争に目に見える形で参加しなかったことを後ろめたく思っている小心な上司でもあった。
 1週間仕事を休んだときの理由は、戦死した恋人の葬儀にでるためだといってあったし、その休暇からまだ何日も経ってはいないのだ。もちろん、戦死してから随分と日が経っていたけれど、別に戦死が確認されるまで葬儀をしないことは珍しいことではなかった。実際のところ、アランの葬儀があったとして出席したかどうかは自分でもわからなかったけれど理由にはなることは確かだった。
 同僚達も、マリアの恋人が応召したことは知っていたし、その恋人の葬儀にでるために休んだと思っていたからマリアが、ぼんやりとしていることをそれほど不思議に思ったりましてや悪く思ったりするものはいなかった。
 それに、全く仕事をしていないわけではなかった。ただ酷く能率が悪くなっているだけだった。
 
 そんなふうだったから、昼休みになっても誰もマリアに遠慮して声を掛けなかった。別に誰かがいなければならないオフィスではなかったし、電話番は受付の方でやることになっていたから昼休みになるとマリアだけがオフィスに残ることになった。
 みんなが出ていくとオフィスは、空調機のたてる低いモーター音と時折テレタイプが受信するカタカタという軽い機械音以外は全く静まり返った。
(オフィスって人がいないとこんなに静かなんだ・・・)
 そんなことをぼんやり思いながらマリアは、窓の外を眺めた。
 窓の外の景色は、単調なビル街でマリアの気持ちをほっとさせたリ気を紛らわせたりしてはくれなかった。エレカや人の往来をぼんやり眺めながら、改めて戦争は、何も、少なくとも表面上は変えなかったのだということをマリアは思った。
 何も変えなかった戦争(コロニーを落された地球や住民のほとんどが死んだサイドにとっては酷い考え方だったが)は確かに終わったのだ。どこが変わったというわけではない眺めだったけれど、全体的な雰囲気は、確かにそう感じさせるものがあった。そして、どんなことにも終わりがあるのよね、とマリアは、漠然と考えた。
 
 昼休みの時間が終わってオフィスに戻って来た上司は、マリアがまだいつもほどでないにしろそれなりに仕事をしているのを目にすることになった。
 そのことについて何か言うことはなかったけれど、心の中だけで安堵しているに違いなかった。それは、もう上司がため息をつかないことので分かった。
 同僚達も、急に仕事をこなし始めたマリアを見て少し驚いていた。
 マリアの、ロッカールームに置いてあるバッグの中には、もう手紙はなかった。そのかわり、オフィスのシュレッダーの中では、ジオン軍の軍用封筒がシュレッドされていた。
 結局、マリアは最後の手紙を読まないことにしたのだった。手紙をシュレッダーにかけるときにほんのチョットだけ躊躇ったけれど、思い切ってシュレッドしたマリアだった。
 きっとアランだっていつまでも自分のことで思い悩んで欲しいなんて思ってないはずだと思うことにしたのだ。
 マリアの元に2ヶ月かかって届いた手紙は、シュレッダーであっという間に無意味な紙の断片になってしまったけれど、マリアの中でアランのことが細切れになってしまうことはなかった。
 アランという、自分のことをとても大事に想っていてくれた人がいたことさえ忘れなければきっとアランだって自分のことを見守っていてくれるに違いないと思うことにしてマリアは、アランとのことを想い出に変えたのだった。
 
U.C.0080 戦争が残した小さな記憶の1つである