匂い


 午後の明るい陽射しの中、ラーナーは、芝生の上に座って子供が他の何人かの子供たちと一緒になって走り回るのを眩しげに見ていた。走るとはいっても、ラーナーの子供は、まだ小さく、もっともラーナーが思っているほどには小さくはない、頼りなげで、いつ転んでもおかしくないといった具合だった。もっとも、転んでも芝生の上ではそれほどたいしたことにはならない。
 少し離れたところでは、妻が何人かの母親となにごとかの話に夢中になっている。これは、ラーナーが、いつも感心することなのだけれど、彼女達の会話というものは、決して途切れたりしない。いったい、何をそんなに話すことがあるんだろうといつも本当に不思議に思う。妻に言わせれば「あら、ジョアン〔ラーナーの子供の名前だ)にもあたしにも、毎日いろんなことがあるのよ、仕事だけのあなたとは違ってネ」ということらしいが、その皮肉交じりの返事を聞かされても、そんなものかとぐらいにしか思えなかった。
「パパァ〜〜ッ!」
 甲高い声に振り向くと、ジョアンが、こっちに向かって駆けてくるところだった。ちょうど視線を妻の方に向けていたところを目敏く見つけたのだろう、注意を自分に引きたがって大きな声で叫んでジョアンは、こっちに向かって駆けてきた。
 ひとかたまりに群れている子供の集団から抜け出してきたジョアンは、ラーナーのところにまで駆けてくると思いっきり飛び付いてきた。小さなジョアンでも、やはり勢い良く飛び付かれると支えきれない。それに勢いを殺してやる意味でもラーナーは、わざとバランスを崩してジョアンを抱き留めたまま芝生の上に転がった。ジョアンが、頭や顔をぶつけないようにしっかりと抱きかかえたラーナーは、仰向けに芝生に転んだ。
「パパ、パパ、びっくりした??」
 すぐにお腹の上に馬乗りになってきゃっきゃっと笑いながら問い掛けるジョアンに、ラーナーは、芝生の上に仰向けに寝転がったまま、さも驚いたように応えた。
「ああ、びっくりしたとも!」
「ジョアンね、走るの早いんだよ!!」
「本当?」
「ほんとだもん!見てて、行くよ!!」
 妻に後ろで縛ってもらった金髪でラーナーの顔をくすぐりながらお腹の上から降りたジョアンは、どこで見たのか、また教えられたのか1丁前に短距離競走のスタートの格好をしてラーナーを急かした。「ねえ、ドンて言って!ねぇねぇ!」
「よ〜い、ドンッ!」
 ラーナーが、掛け声を掛けてやるとジョアンは、ちょっとタイミングをずらして、それでも一生懸命に走り出した。
 仰向けになったまま顔を横に向けて一生懸命に走っていくジョアンを見ながらラーナーは、次の瞬間、別なことを考えていた。
 何故なら鼻腔いっぱいに芝生の匂いを吸い込んだからだ。
 それは、確かに芝生の匂いだったが、ラーナーの記憶に深く刻み込まれた芝生の匂いとは明らかに違っていた。あの日、嗅いだ種類と違う芝生〔そう、一般に芝生と言ってもその種類は多種多様なのだ)のせいかも知れないが、ラーナーは、そうではないと思った。仮に、あの日、あの場所にあった芝生がここに植え込まれていたとしてもきっとラーナーには、違うものとして感じてしまうような気がするのだ。
 その大部分は、ここがコロニーの中で、人工的に作られた居住空間だからだろうという気がした。どんなにコロニー公社が、コロニー内の環境が地球上のそれと近いかを宣伝しても、ラーナーのようにたとえ短い期間ではあっても地球を体験したものには、意味はなかった。コロニーと地球では、前者がいかに努力をしようとも近づけない何かがあった。その何かが、芝生の香り1つとっても確実に違うということをラーナーは知っていたのだ。こんなことは、妻に言っても理解しないだろうし、ましてや産まれてからこのコロニーを一歩も足を踏みだしたことのないジョアンには説明のしようもなかった。だからこそラーナーは、2人を地球に連れて行ってやりたいのだ。
 だが、自分にそうできるだろうかとラーナーはいつも自問する。あの夏の日に嗅いだ匂いを再び体験してしまったら、もしかすると自分がどうにかなってしまうかも知れないと秘かに恐怖しているせいだった。
 
0079/08 アジア極東地区
 
 ばらばらばらっ・・・
 あたかもそれが空中から振ってくるのが当たり前だと言わんばかりに振り続けた土くれの五月雨は、始まったと同じように唐突にやんだ。
 それはその雨を降らせる元になった鉄の豪雨から、解放されることも意味した。ほんの一瞬、安堵できる瞬間だった。
 しかし、ラーナーには、本当に鉄の豪雨が止んだのかどうか、判断しかねた。だから、分隊長のホト軍曹が、集合を野太い声で叫ぶまで、ずっと伏せた姿勢でいた。
 真夏の陽射しの中で汗ばんだ身体を気持ち悪いなどと思う余裕すらなくただただ伏せていたラーナーは、ゆるゆると立ち上がった。
 
 その砲撃は、ラーナー達の中隊が、占領地を拡大するための作戦行動を起こして2日目に遭遇した連邦軍の阻止攻撃の一環だった。
 その砲撃を受けたのは、山岳地帯に逃げ込んだ(果たして逃げ込んだ軍隊がここまで的確な砲撃をしてくるものかどうか?)連邦軍を包囲殲滅するために踏み込んだゴルフ場でだった。
 3機のザクに支援されたラーナー達の中隊は、ザクを後方において前進した。何度かの交戦を通してザクを先頭にするには山岳地帯というものは、あまりにも危険で益のないことを理解していたからだ。歩兵を先頭にしてあたりに注意を払わせながら前進し、敵を見つけて初めてザクに支援させるのが妥当だということを高い授業料を払って当地のジオン軍司令部は思い知らされた。逃げ惑う連邦軍をザクで蹴散らすという戦場は、少なくともこの極東の島国にはなかった。
 そして、広く散開してゴルフ場を進むジオン軍兵士達は、学んだことをまだ十分ではなかったけれど少しは活かしているのだった。
 
 山間部に突如として切り開かれたゴルフ場という施設は、ラーナーのようなコロニー育ちの人間には全く理解のしようのない施設だった。もちろん、ラーナーだってゴルフがどんなものかは知っていたが、コロニーのように空間を無駄にできない環境にあってはゴルフ場などというものは悪でしかなかった。
 ゴルフ場のような開けた地形を横切ろうとしたのは、やはりザクを伴っているからだった。他の地形に比べれば切り開かれたゴルフ場は、ザクを進出させやすい地形だった。今となっては遅かったし、考えてもどうしようもないことだったが、連邦軍だってそれくらいのことを考えて網を張るのは、少し想像力が豊かであれば十分に想定できたことに違いなかった。その反面、どれほどその確率が高くても中隊は、ゴルフ場を迂回などしなかったに違いないとも思う。総合戦力で劣るジオン軍にとってザクは、それほど頼らねばならない兵器だった。
 中隊が横切ろうとしたゴルフ場は、開戦からこっち、芝の手入れなど全くなされていなかったが、それでもラーナーの目にはこの人工的に作られたゴルフ場の芝が整然と背丈を揃えて生えているのを見てある種の感動を覚えずにはいられなかった。
 なにしろコロニーでは、これほど広々とした面積を持つ緑地にはお目にかかれないのだから。地球に降りて3ヶ月が過ぎようとしているラーナーでさえそうなのだから、新兵達はもっと驚いているだろう、もしくは呆れているだろう、とラーナーは思いを巡らせた。
 そして、その一面の緑が放つ生命力に溢れた匂い。真夏の太陽を浴びてむんむんと草いきれを放つ中で、ラーナーは、胸いっぱいにそれを吸い込んだ。それは、緑の匂いとでも表現したら良いのだろうか?とにかく濃厚で、暑さのせいだけでなくラーナーをくらくらさせるほどだった。これが、コロニーの中で申し訳程度に植栽された植物とは全く違う、生命力に満ちあふれた植物の匂いというものなのだとラーナーは、思った。
 その生命力で溢れた芝生に一面覆われたゴルフ場を半分も進んだとき、それは突然始まった。
「伏せろッ!」
 誰が叫んだのかわからなかったが、その声が聞こえたときにはむせ返るような暑さで頭がぼうっとなりかけていたにも関わらずラーナーは、瞬間的に伏せていた。何度か戦場を経験するうちに無条件で身体が反応するようになっていたのだ。しかし、反射的に伏せることのできたラーナーでさえ伏せきるまでに最初の一発がゴルフ場に降り注いできた。
 突然の1発目に続いてコロニーの中心軸エレベーターが高速で通過していくのを間近で聞くような轟音がいくつも重なってやってきた。
 ズシンッ!!
 はらわたに直接訴えかけるような震動が襲いかかり、大地と大気を震わせる。手にしていた小銃を投げ出して耳を覆い、口を開ける。口を開けるのは、爆風で鼓膜をやられてしまわないためだ。
 1発目こそ、爆発音として聞き取れたが、後は連続する轟音、いや暴音でしかなかった。あまりに連続して着弾するために音が一続きになってしまっているのだ。
 一瞬だけ顔をあげて、もっと安全場所をラーナーはさがした。その一瞬でさえ、着弾して整然とした芝生を掘り返す砲弾の暴力を少なくとも視界の範囲内だけで5つは数えることができた。
 少しは、ましと思える場所が20メートルほど先にあった。潅木に囲まれた小さな窪地が見えたのだ。走っていきたい衝動に耐えて、じれったい匍匐前進でその方向に向かう。走ればあっという間に辿り着けるだろうが、次から次へと広域射撃で送り込まれてくる連邦軍の大口径榴弾が撒き散らす破壊に巻き込まれてしまうのは間違いなかった。
 あるいは、砲弾が着弾し、掘り返した穴に入るのという手もあった。戦場のジンクスとして同じ場所に砲弾は着弾しないといわれているからだ。実際そうなのかも知れなかったが、ラーナーは、そんなジンクスを信じる気にはなれなかった。
 砲撃は、のっけから全力だった。試射なしのいきなりの全力砲撃は、連邦軍が最初からこの辺り一帯を砲撃ゾーンとして設定していたことを表していた。そうでなければ、試射で弾着を確認した後に修正を掛けてから一斉射撃を行うというのが手順だからだ。この場合であれば、一斉射撃が来る前に若干の余裕があるが、直接砲撃ゾーンに踏み込んでしまった場合、いきなり斉射をくらうわけだからそのダメージは大きい。
 ラーナーは、30センチほどまでも伸びた芝生の中にすっぽり埋もれてはいたが、芝生の遮蔽物など榴弾が撒き散らす弾片にとってはなんの意味もなかった。次々と間断なく炸裂する連邦軍の榴弾の炸裂音に脅かされながらラーナーは、必死で這った。
 漸く辿り着いた窪地は、ラーナーが思っているよりもずっと深みがあった。下手な塹壕並みの深さだった。そのことは、そのままラーナーの生存率を高めてくれる。ほっと一息をついたラーナーは、自分が自動小銃を放り出したままであることに気がついた。
〔まあ、後で取りに行けばいい)
 そうひとりごちるとラーナーは、その窪みの中で更に身を低くした。
 直立している生身の人間に対してならば30メートルにも及ぼうかという危害半径を持つ重榴弾砲も伏せてしまえば、その危害半径は半分程度になり、しっかりと作られた塹壕であれば、更にその危害半径を狭めることができた。弾片や、時には弾片以上に危険な爆風は、直線的に進もうとするからだ。
 はらわたに響く爆発音に、新たな爆発音が混ざり始めたのは、ラーナーがその窪地に入っていくらも経たないうちだった。直接大気だけを震わせる爆発音、それはそれまでの瞬発信管を用いた榴弾とは全くことなる種類の榴弾が混ざり始めたことを意味した。時限信管を用いた榴散弾が混じり始めたのだ。
 瞬発信管とは、砲弾が目標物、今の場合であれば地表に着弾したと同時に砲弾を爆発させる。このため、弾片や爆風は地表の1点を中心に放射状に広がる。だから、塹壕やちょっとした遮蔽物によって身を守ることが可能となる。ところが、時限信管用いた榴散弾の場合はそうはいかない。時限信管は、砲撃目標によってその調整の目的が違ってくるが、この場合は砲弾が地表に辿り着く寸前に空中で爆発するように調整されている。その結果、弾片や爆風は、空中の1点から放射状に広がる。しかも、下方へ向けて破壊が撒き散らされるように設計すらされている。このことは、浅い塹壕や無蓋の遮蔽物がもはや身を護る役目を果たさなくなること意味する。
 通常の榴弾と空中爆発する榴散弾を効果的に併用された場合、歩兵は通常の砲撃よりも大きな損害を被る。
 ましてや、ゴルフ場のような開けた場所で曝されたのなら尚更だ。
 ラーナーのように上手い場所、といっても平坦な場所よりいくらかましという程度でしかなかったが、に辿り着けたのならまだましだったが、そうでなければこの併用砲撃はまさに悪夢としか言い様がなかった。
 砲弾が、どちらの種類にせよ、至近で炸裂するたびにラーナーは、身体を縮めた。至近で爆発すると全身を濡れ雑巾でひっぱたかれた様な衝撃が襲いかかり、ラーナーの肺から空気を強制的に吐きださせようとする。心臓の強くないものならこの衝撃だけで心停止してしまうほどの衝撃波だ。呼吸するタイミングを間違えるとむせ返ることになる。
 一方的に彼方から放たれてくる砲撃の暴力に対してラーナー達歩兵ができることといえばただ祈ることだけだった。チョットぐらい堅牢に作られた塹壕でも重砲弾が直撃すれば跡形もなく吹き飛ぶ。歩兵達は、自分がそんな死神の気まぐれにあいませんようにと祈るのだ。ラーナーも産まれたばかりの子供の名前を呼び、妻の名前を呼び、他の歩兵達もしているだろうように祈り続けた。
 そして、反撃することすら許されない無慈悲な攻撃が終わるのを待ち続けた。
 この場合、もっとも有効な反撃は航空支援を要請して、砲撃陣地を潰すことだったが、8月のこの時点では歩兵部隊と航空部隊が連携をとるというような器用な部隊運用をジオン軍はできていなかった。もっとも、この戦争を通じてジオン軍が地上部隊と航空部隊を上手く連携させたことなど皆無だったが・・・。
 次善の策としては、ザクを強行前進させ、やはり砲撃陣地を蹂躙させることだったが、ザクだけ、しかも3機しかいない現状で森林地帯を前進させることは、すなわちザクを3機とも失うことに直結する。何が潜んでいるか分からない森林地帯をなんの支援も受けずに前進できるほどザクは、万能な兵器ではなかったからだ。
 
 結局、ラーナーの部隊は、砲撃されるに任せるしかなかった。
 10分あまりの砲撃の後で、砲撃されたほうから見れば、それがたった10分で終わったなどと到底思えなかった、ラーナーは、身体に積もった土砂を払い落としながらゆるゆると立ち上がった。
 耳は、10分も続いた暴音のせいでどこから聞こえて来るのかわけの分からない金属音で満たされ、視界も濛々と立ちこめる砲煙や何かが燃える火災煙、そしてまだ空中を漂う微細な土砂で満足に得られなかった。無理に何かを見ようとするとそれらの雑多なもので眼球が刺激されてたちまち涙が溢れてきた。
 ただ、嗅覚だけは確かに働いていた。
 硝煙の匂い、焦げ臭い何かの匂い、ややうすらいだけれどそれでも匂いのかなりの部分を占める芝生の匂い。そして、得体のしれない何かの匂い。
 それが何にもとを発するか知ったとき、ラーナーは、激しく嘔吐した。自分の銃を探しに戻ったラーナーは、信じられないほど真っ赤な血を吹き出して動かなくなっている友軍兵士を目の当たりにしたのだ。赤と緑の強烈なコントラスト。そして、得体の知れない匂いが血の匂いと知ったとき、ラーナーは、もう少しで気が触れるところだった。そうならなかったのは、嘔吐という激しい生理に襲われたからにほかならなかった。
 
 部隊は、結局それ以上の前進を残念した。
 その後、更に攻撃を受けたわけではなかったが、結局のところたった10分あまりの攻撃が、部隊の前進を諦めさせてしまったのだ。
 32名が負傷し、12名が戦死し、更に負傷者のうち3名が日暮れまでに息を引き取った。
 部隊全体としては戦力を30名ばかりを失った〔負傷者の全部が戦闘不能というわけではないからだ)けれど、そのことが直接追撃を残念した原因ではなかった。確かに1回の戦闘で30名あまりを失ったことは部隊にとって痛手ではあったけれど、もっと大きな損害を受ける戦闘はいくらでもあった。そして、戦闘をそれでも続行しなければならないこともだ。
 理由は、いろいろとあった。
 部隊を建て直して再び前進するまでには、陽が傾くとか、負傷者を後送しなければならないとか。書類上の理由は、いくらでもあった。
 しかし、本当のところは、ザクを随伴できないからだった。
 ゴルフ場を迂回機動することは歩兵には容易なことだったが、ザクには、難事だった。山間部、特に極東のこの島国の山間部は起伏に富み、ザクが作戦行動を行うには、あまりにも不適切だった。そして、ザクを欠いた中隊は、決定的な火力不足に陥ってしまうからだ。
 陽がまだ高いうちに、部隊の再編成を終えたラーナーの中隊は、一発の銃弾を撃つこともなく後退した。
 
 結局、夏が終わるころになってもジオンの制圧地域は、そのゴルフ場を越えていくことはなかった。代わりの中隊が、同じように出撃して、別なルートをとったにも関わらず、反撃を受けたからだ。航空支援まで伴った連邦軍の本格的な反撃によってその中隊は、随伴したザクとともに文字通り全滅してしまった。
 ラーナーが、所属する前線基地は、現状維持を決定し、その境界ラインをゴルフ場の手前に決めた。連邦軍もそう決めたらしくその境界ラインを連邦軍の地上部隊が越えてくることはなかった。
 だからといってラーナー達歩兵が暇を囲ったわけでは全然なかった。境界線区域の偵察という新しい任務が歩兵達には与えられ、その偵察行動はそのまま連邦軍の同じ目的を持つ部隊との交戦となることもしばしばだった。決して派手さはない交戦だったが、双方の歩兵達が命の遣り取りをしたことだけは確かだった。結局、双方ともに現状を維持したまま終戦まで、その小競り合いは続いたらしかった。らしかった、というのはラーナー自身は、何度目かのパトロールで負傷し、冬が来る前にジオン本国へと送り返されたからだ。
 終戦は、いろいろな薬品の匂いに囲まれた病院のベッドで迎えた。


 

「パパぁっ、パパったらっ!見ぃてぇたぁのぉ〜?」
 ちょっぴり機嫌を損ねたジョアンの声が、ラーナーを現実に呼び戻した。
「っいっしょ」
 掛け声とともに芝生の上に座り直したラーナーは、小さな嘘をついた。「ああ、見てたとも。でも、パパの方がもっと早いぞ!競走しよっか?」
「うん!」
 不機嫌そうな表情は、その瞬間ジョアンの顔から綺麗さっぱりとなくなって、満面の笑みで満たされた。
「ねえねえ、どこまで?ねえねえ?」
 もう、ジョアンの頭の中は競走のことでいっぱいだ。
「向こうの白いベンチ、いいか?」
 ラーナーは、50メートルほど先の白いベンチを指さした。
「うん!」
「よ〜い、ドン。で、スタートだぞ」
「ど〜んっ!」
 いつの間にか、後ろに来ていた妻がそういうとジョアンは、キャッキャとはしゃぎながら走り出した。
 振り返ると妻は、何かを言いたげにしていたが、ラーナーは、それには気が付かないふりをして、バッと立ち上がると先に走り出したジョアンを追いかけた。
 全力で走るラーナーの鼻腔に微かな芝生の匂いが、心地よく届いた。
 
0082 1人のジオン兵の記憶である