撤退


「撤退準備っ!てった〜〜〜いじゅんび〜〜っ!!」
 所々が破け、汚れた軍服を着た伝令が、あちこち崩れかかった塹壕を駆け抜けていく。伝令自身も軍服と同じように傷つき疲れ切っているはずなのにどこにそんな元気があるのかと思えるほど力強く駆けて行く。
 それでも、塹壕を駆けて行くのは、その兵士の状態がこの最前線の中ではまだましなほうであり、のろのろ動いていては命がいくつあっても足りないからに他ならなかった。連邦軍の砲撃が、いつ再開されるかは誰にも分からなかった。
 まだ日が登ったばかりの最前線はいつ果てるともなく続けられている連邦軍の砲撃が一時的に止んだことによって静寂に包まれていた。もちろん戦場特有の騒がしさがなくなったわけではない。ただ、戦場のそこここで炸裂する砲弾の天地をひっくり返すような轟音が聞こえなくなったからに過ぎない。
 
「撤退って・・・」
 駆けて行った伝令と同じようにぼろぼろになってこれ以上汚れようがないのではないかというほどよれよれになって薄汚い軍服を着たコクランはつぶやいた。数日前までは、生きているだけましだと思っていたコクランだったが、昨日あたりからは、生きていることこそが不幸なのではないかと感じるようになっていた。確かに、今でも死ぬことはいやなことで怖いことだったが、死んでしまえば毎日果てしなく繰り返される砲撃や爆撃のたびに死んでしまうのではないかという恐怖からだけは開放されるはずだった。突然の連邦軍による反撃が始まってからまだたった10日あまりだったが、コクランの精神を蝕むには十分な長さだったのだ。
 それでも、コクランが今日までこうして生きているのは、半分以上は上官のモルトフ軍曹のおかげ、あるいはせい、だった。モルトフ軍曹は、コクランが所属する分隊の指揮官であると同時に分隊で生き残った2人のうちの1人でもあった。
「文句を言う暇があったら貴様、装備を整えてどこへでも行けるようにしろっ」
 昼夜を問わない砲爆撃の結果、半ば耳が聞こえなくなったせいでモルトフ軍曹の声は、異常に大きかったが同じように耳がおかしくなったコクランにはちょうどよかった。
「わかってます、軍曹!」
 同じように大声で返し、頭からかぶった土砂を払いながらコクランは立ち上がった。もっとも、土を払ったからといって綺麗になったりするわけではなかったけれど。
「さあ、けつをまくるぞ」
 そうはいってもいったいどっちにむけてけつをまくるんですか?とは妙に元気なモルトフ軍曹には、コクランは聞けなかった。崩壊しつつある北米戦線には、ジオン軍がけつをまくって安全になるような土地は少なくとも半径100マイル以内には1エーカーだってありはしないことを1ヶ月前には新兵だったコクランも知っていたからだ。
 
 北米大陸、メキシコ湾のちょうどカーブを描いた地点にあるサンアントニオ基地は、もともとそれほど存在価値のある基地ではなかった。メキシコ湾を扼するには奥に位置しすぎていたし、そうかといって内陸の交通の重要地点でもない。それでも、ジオン軍が大隊規模の部隊を十分に防空戦闘ができるくらいのドップ戦闘機、とはいっても中隊を増強した程度でしかなかった、と連邦軍が奪回を計画などしたくなくなる程度のモビルスーツと共に配置したのは単にそこに基地があったからに過ぎない。
 そういったふうであったからジオン軍が地球上に持つ他の多くの基地、いってしまえばソロモンやア・バオア・クーでも同じだったのだが、と同じように怒涛のごとく始まった連邦軍の本格的な反攻の前には抗するべくもなかった。
 10日前、突如として始まった連邦軍のサンアントニオに対する攻撃は、そこに駐屯するジオン軍の想像をはるかに超える規模の航空攻撃で幕を開けた。その航空攻撃の前には、十分に防空戦闘ができるはずだったドップの飛行中隊も最初の迎撃戦に飛びたてたものはまだましなほうで、ほとんどの機体は地上撃破されてしまった。飛び上がったものも10分とは空中に留まることができなかった。開戦劈頭には、地球連邦軍を圧倒したはずのドップ戦闘機もつまるところ数の論理の前には、何の役にも立たなかったわけだ。
 早い話しがその日始まった一大航空攻撃の第1波目でサンアントニオのジオン軍は迎撃手段を失ったのだ。続く2日間、初日と合わせるなら都合3日間に投入された連邦軍機が延べ2000機にもなろうかという勢いの中では中隊を増強した程度、20機足らず、のドップでは対抗できるはずがなかった。
 そして、小規模な航空攻撃、サンアントニオのジオン軍にはとてもそうは思えなかったが、に切り替えた連邦軍が、次に打ってきた手は野戦重砲による遠距離砲撃戦だった。
 決して動くことのないサンアントニオ基地に対してまるで1インチ刻みで地面を砲弾で耕すような砲撃を行ってきたのだ。航空攻撃を何とか免れてわずかに残っていた反撃手段も、この鉄の暴風雨の前に、次々と失われていった。そう、モビルスーツでさえである。155ミリや203ミリもの大口径砲弾の直撃など想定していないモビルスーツにとって、それらの直撃は、即破壊を意味した。ザクは、もちろん、装甲を強化したはずのグフや重モビルスーツの名を欲しいままにしたドムでさえ重砲弾の直撃には耐えられなかった。
 20数機あったモビルスーツも、航空攻撃とこの野戦重砲による砲撃によってわずかに5機を残すのみとなっていた。
 ありったけの重砲段を惜しみなく叩き込んでいた砲撃も3日前に終わってはいたが、今度は、どこかに前線観測所を置いたに違いない修正砲撃が見舞われるようになり構築されていた塹壕や反撃拠点も次々にその存在価値を失っていた。
 そして、昨日あたりからまことしやかに、連邦軍の直接攻撃が始まると噂されていた。
 その噂の出所は、昨日戦死してしまった基地の参謀付通信兵だったというからかなり確度は高いらしかった。おまけにその噂は、ご丁寧にも基地司令部は、連邦軍からの降服勧告を蹴ってしまったらしいというおまけつきだった。
 
 もっとも、このときの連邦軍は、そういった降服勧告など行ってはいなかった。2個中隊、24機のジム・モビルスーツが血に飢えてそのときを待っていたからだ。
 
 それは、部隊の撤収準備が幾らも進まないうちにやって来た。
「敵襲っ!!」
 撤退命令が出てからいくらもしないうちにそれは第11前方観測所、幾つかあった観測所のうち唯一残っていた、からその報告はもたらされた。とっくの昔に有線式の警報手段は失われていたので簡易無線を使った音声通信だった。「敵は、戦車を先頭に…」
「軍曹!」
 コクランは、軍曹に声をかけると同時に手にしていた自動小銃のコッキングを一往復させ射撃ができるようにした。連邦軍の攻撃が始まって以来2度目の動作だ。1度目は、最初の空襲のときだった。このときは、1発も撃つことはなかった。いや、撃てなかったのだ。撃とうとはしたのだけれど、モルトフ軍曹に一喝されて塹壕に這いつくばっていたのだ。その後も銃を撃つ機会などなかった。20キロ以上ものかなたから砲撃してくる相手にコクランの持つ小銃はあまりにも無力だったからだ。しかし、今日は違う、相手は自分の目の前のにまで迫ってくるはずだった。
「敵は多数のモビルスーツを伴う!」
 しかし、戦車を先頭に、に続いた警報が一気にコクランの戦意を奪った。
 
 圧倒的な兵力、連邦軍はほとんど抵抗力を失ったサンアントニオに対して1個大隊の兵力を2個中隊のモビルスーツと同じく2個中隊の機甲部隊に支援させて攻撃を開始した。もちろん、航空支援付である。
 これに対してジオン軍は、いまだどうにか残存していたすべての迎撃戦力を出した。その戦力は、5機のモビルスーツを筆頭にして2両のマゼラアタック、それに5台の装甲車両、それにコクランやモルトフ軍曹のようにぼろぼろになった歩兵約200名だった。
 敵の攻撃が始まってしまった今、サンアントニオのジオン軍は撤退をすることさえできなくなったのだ。
 
「軍曹、モビルスーツです・・・」
「見ればわかる!頭を低くしていろ、こいつは俺たちの出番じゃない!」
 半ば呆けたようにいうコクランに対して鋭く言い返すとモルトフ軍曹は、いつもと同じように体を精一杯塹壕の底に押し付けた。それを見たコクランも慌てて同じように伏せた。
 それでも、地響きを立てながら自分たちの近くに陣取ったグフの戦闘の一部始終は、浅い塹壕の底からは十分に見て取れた。
 グフは、手にしたマシンガンを無造作に射撃した。実際照準など必要なかったのだろう。いわゆる3点バースト射撃を3回行った。半分いかれかけた耳にも120ミリマシンガンの射撃音は大層なものだった。しかし、3回目が、最後だった。3回目のバースト射撃を終えた次の瞬間、塹壕の底からグフを見上げていた2人は絶句した。ピンクの閃光がグフを貫いたのだ。同時に空気をひっぱたいたような乾いた轟音が2人の耳を襲った。そして、グフの上半身が大音響とともにバラバラに吹き飛んだのはその瞬間だった。パイロットは即死したろうが、それは人事ではなかった。上半身を失ってバランスを崩したグフがそのまま2人のいる塹壕に倒れ掛かってきたのだ。
 2人は、同じことを思った。もう、駄目だ、と。しかし、倒れ掛かったグフは、ほんの少し塹壕の底に這いつくばっている2人からずれたところに倒れた。もう3メートルもずれていれば2人は、グフの下敷きになって戦死しているところだった。
 命こそ助かったが、数十トンもの巨大重量物が倒れきたことによって巻き上げられた土砂や埃でコクランは窒息しそうになった。猛烈にむせ、涙が止まらない。小銃を手にしているどころではなかった。からだを小さく折り曲げてゴホゴホとむせ、窒息の恐怖に耐えた。そのコクランの襟首を誰かが、モルトフ軍曹以外にありえなかったが、思い切り掴んで引き摺った。その瞬間、コクランは、頭に何か強い衝撃を受けて何もわからなくなった。
 
 一度は、抵抗のそぶりを見せたサンアントニオのジオン軍は、5機のモビルスーツが、1両の61式戦車を撃破しただけで全滅したのを目の当たりにして、潰走した。10日にもわたる準備攻撃を受けていたジオン軍にはもう組織的抵抗をする気力も手段も残されていなかったからだ。サンアントニオのジオン軍の抵抗は、小さなものを含めても15分と続かなかった。瞬く間にほとんど全ての重装備と100名以上の兵士を失い、指揮系統も分断され、互いの連絡もとれず圧倒的な連邦軍の攻撃力の前に戦意を喪失したジオン兵たちが各個に降服し始めるまでにはたいした時間はかからなかった。
 
 コクランは、真っ暗闇の中で目覚めた。
 もしも、周りの雑音がなければ自分が、死の世界にやって来たと思ったに違いなかった。目を開けたはずなのに何も視界には飛び込んでこないのだから。いったいなぜ光がないのか理解できないまま恐る恐る身体を起こそうとすると声が掛かった。
「気が付いたのか?コクラン」
 その声は、モルトフ軍曹の声だった。
「ぐ、軍曹、目が見えないんです・・・」
「目に土が入ったんだそうだ。お前、顔中泥だらけになったんだぞ、塹壕で埋まってな」
 連邦軍の戦車が発砲するのを認めたモルトフは思いっ切りコクランの首根っこを掴んで倒れてきたグフの下の僅かな隙間に引っ張り込んだのだ。その時に、コクランはしたたかに頭をグフにぶつけて失神してしまったのだ。そして、戦車砲弾が至近に着弾し、2人して土砂に埋もれたのだった。
「戦いは、どうなったんです?」
 コクランが、最後に見た光景は妙にゆっくり倒れてくるグフの下半身だった。そして、もうもうと立ちこめる土煙の中で窒息しそうになったのが最後の記憶だった。
「負けたよ・・・」
「負けたん・・・ですか?」
 不思議と、悔しくはなかった。あれで勝てるなどとは思いもしていなかったからだ。「それで、私たちは・・・どうなったんですか?」
 後方のどこか安全な場所に脱出できたのか、それとも・・・。
「捕虜になった」
 妙にさっぱりした言い方だった。「それで、連邦軍の軍医が、お前を看てくれたというわけさ。一応洗浄してくれたが角膜に傷が入ってるとかいって包帯をぐるぐるに巻いていったんだ」
「それじゃあ、見えるわけありませんね?」
「まあな、でも心配するな、じきに見えるようになる。」
「それを聞いて安心です。軍曹は?大丈夫なんですか?」
 本当は1番に目が見えるようになるのか聞きたかったのだが、もしも、もう見えないんだといわれたらと思うと聞けなかったのだ。ほっとしてコクランの肩から力が抜けた。
「目はな」
 モルトフ軍曹らしい言い回しに、思わずコクランは、頬を緩めた。
「軍曹、見えないんだから意地悪は止して下さいよ」
「足が折れちまったよ」
「軍曹のつきも、ついに尽きたって訳ですね?」
 そういいながらコクランは、さらに口元も緩めた。足は、折れたにしても軍曹の口調からそれほど深刻でないことが感じ取れたからだ。俺は、怪我をしない、運がいいからな、というのが軍曹の口癖だったからでもある。
「何を言ってる、生きてるんだぜ、俺達は」
「・・・」
 そう、確かにそうだった。分隊の仲間達はみんな死んでしまったのだ。それを思えば足の1本や2本、目が少しの間見えなくなるなんてことは大したことではないのかもしれなかった。「帰れるんですね?宇宙に」
 コクランは、ずっと前に諦めていたことが実現するかもしれないことに気が付いた。いったい、モルトフ軍曹からどんな答えが返ってくるのだろう?軍曹の表情を見ることのできないコクランは、僅かな時間を固唾を飲んで待った。
「ああ、時間は掛かるだろうがな。国への撤退というわけだ、多少の時間は我慢できるだろう?」
 モルトフ軍曹が、いったいどんな顔をしてそういったのか分からなかったが、一語一語ゆっくりとした話し方を聞いてコクランの見えない目の奥は自然と熱くなった。
 
U.C.0079 サンアントニオでの短く熱い冬の話である