その2
部屋へ戻ってからも、さくら姫の心は落ち着かなかった。今しがた別れたばかりの彼の姿が脳裏に焼き付いて離れない。あの人の声も眼差しも、なんと心地よいものであったか。
宮殿の中は、先ほどの騒ぎに決着がつかないらしく、まだ、ざわついていた。そのことも、あの人の無事を知らせているようで、姫はうれしかった。
「自分の国へ、何事もなく、お着きになれたかしら?」
その夜、さくら姫は、初めて兄上以外の人の無事を願って、神に祈った。
さて、同じ頃、小狼は友人の貴志とその恋人を連れて、追っ手をかわしながら、なんとか、国境へ辿り着いたところだった。
「わざわざ、殿下にまでお力添えいただいて…」
「貴志、それは言わない約束だろう?私は、友人として、当然なことをしたまでだ。あと少しで隠れ家に着く。急ごう」
3人は暗闇の中、馬を走りに走らせて、城下から少し離れた王家の別荘へやってきた。
「ここは、狩りの季節にしか使わないところだ。管理をしている老人は私の武道の師匠の奥方。なにも心配はいらない」
「何から何までお気遣いいただき、かたじけない。千春も殿下にお礼を申し上げなければ」
千春と呼ばれた、貴志と同じ年頃の娘は、瞳を潤ませて、礼を言った。
「本当に、殿下。見ず知らずの私のために、有難うございます」
「見ず知らずではない。貴志の想い人ではないか。どうか、幸せに、いつまでも、一緒に暮らしてくれ」
小狼の言葉に二人とも、嬉しさの余り、返事ができない。
「それにしても、さくらという名の女性はどなたであろう?」
小狼が何気なく口にした名前に、千春がはっとして答える。
「その方は、私が侍女をしていました、王家の王女、さくら姫さまですわ」
「なんと!王女であると?」
「ええ。今日の舞踏会は、姫さまを慰めるために開いたもの。それが、どうかなされたのですか?」
小狼の表情が一転暗くなる。あの初々しい女性は、隣国の姫であったか。
「いや、なんでもない。私は城へ帰るが、必要あらば、師匠に言づてをしてくれ。では、さらばだ」
「殿下もお気をつけて、お戻りなされますよう」
馬を走らせ去っていく小狼を若い二人はいつまでも見送っていた。
小狼は馬上で姫のことを想った。テラスの上で、風に吹かれ、なびく髪。仮面の奥で踊る楽しそうだった緑色の瞳。自分が隣国の者と知ったときの驚いた顔、木陰から見えた手を振る姿。彼は、彼女に自分の心が強く惹かれるのを止めることはできなかった。
夜が明けて、さくら姫は、兄上の帰還を知った。いつもなら、真っ先に駆け寄っていくのに、今朝は、昨夜、舞踏会で出会ったあの人のことが気になり、心から喜べない。
「さくら。昨夜は折角父上の開いてくださった舞踏会に侵入者がいて、大変であったな」
「ご心配いただき、かたじけのうございます」
姫は兄に表情を読まれまいと深くお辞儀をする。しかし、敏い桃矢には、妹の心の変化を見逃さなかった。
「さくら、そなた、まだ、疲れているのか?いつもと様子が違うが・・・」
そう。王子桃矢は、その、人を上回る魔法の才能により、この国の『魔法の石捜索隊』の隊長として、任務にあたってきたのである。今朝は国境の警備を副隊長に任せ、昨夜の事件の真相を訊きに戻っていたのだ。
「では、父上。昨夜の侵入者たちの目的は、魔法の石のことではなかった、と、おっしゃられるのですか」
「そのようなのだ。なんでも、さらわれた娘は相手のことをよく知っているようだったらしい」
さくら姫は、二人の会話を聞きながら、やはり、昨夜の事はすべて本当のことであったと思った。あの方は、『友人の恋人を連れ出す』とおっしゃっていたのだし。
さくら姫は、二人に暇乞いを申し出て、退席した。その姫を心配する兄王子。
翌日からは、国境の警備にさらに人が費やされることとなった。侵入を許したということで、城の警護も今まで以上に固められている。さくら姫は、あの方には二度と逢えないと思い、こっそり涙した。
その3へつづく