さくら姫が避暑から早々に引き上げてきて、最初にしたのは、兄上への謁見だった。
いつも忙しい桃矢兄王子を捕まえるのは、そうたやすいことではない。国境のはずれにいたり、ひどい時は何の連絡もなく、一ヶ月以上姿を現さない事もあるのだ。
今回は、うまいことに相手から呼び出されたので、姫は不安を抱えながら、兄に会った。
「兄上、お久しぶりにございます」
「さくら。そなたにしては早い帰りだったが、何か向こうであったのか?侍女たちが心配していたぞ」
兄の言葉に姫は唇を強くかむ。侍女たちに自分の動揺が知られていたのが恥ずかしかった。しかし、今、兄に訊ねなければ・・・。
「実は兄上にお訊ねしたきことがあります。隣国の小狼王子のことですが・・・」
王子の名前が姫の口から聞かされて、桃矢は腰を浮かせた。
「そなたから、その名を聞くとは思わなかった。何故知ったのか」
兄の慌てた様子に、姫は小狼が王子であることを確信した。
「侍女が口を滑らせたまでのこと。やはり、かなりな魔力を持った魔法使いなのですか?」
桃矢は座りなおすと、深く頷いた。
「あやつは冷酷な魔法使いだ。どうやら、魔法の石の情報も掴んでいるようだ。こちらも、うかうかとしていられない。姫、私は明日出発する。また、留守を頼む。父上もそなたのことを心配しておられた」
姫は、跪いてお辞儀すると、兄の無事を祈ると言って、部屋を出た。
さくら姫の様子がいつにも増して、桃矢を不安にさせた。隣国の王子の名前を知っていたことも気にかかる。国境への森に出発する用意を部下に指示しながら、厭な予感が胸に湧き上がった。
自室に戻った姫に真実を知った悲しみが襲った。あの方は、やはり王子だったのだ。兄上の焦った様子がなにもかもを物語っている。けれど、自分も身分を明かしてはいない。あの人が黙っていたからと言って、責めるわけにはいかない。
「兄上は、明日出発するとおっしゃっていた。どこかで、小狼さまにお会いするのかもしれない・・・」
さくら姫は自分も兄に付いて行きたいと思った。こんな苦しい気持ちを抱えて城に残っているのなら、あの人に会って、真実をその口から聞かせて欲しい。
『まるで、心が、自分ものではないかのようです。あの人を好きになってはいけないのに。私は、私の心を止めることができない。あの人のやさしい笑顔が忘れられない。あの人に会いたい。会って、私の本当の想いを告げてしまいたい・・・』
姫は、小狼の正体を知っても、変わらず惹かれていく自分の心が辛かった。その日も、自分の中に生まれた熱い想いを胸に眠れぬ夜を過ごした。
翌日、桃矢王子一行は、魔法の石の何度目かの探索に出かけた。
姫は城の窓から、行軍の様子を眺め、兄とあの方が出会わないように、あの方が無事であるように、と、祈った。
そんな姫の様子を侍女たちは、心配げに見ていた。やはり、姫は恋に落ちてしまったようだ。それも、許されぬ相手と。入り江で見かけた人物を苺鈴は見間違えなかった。
「私、姫さまにお名前を教えてしまって、後悔しています」
苺鈴は、侍女長の利佳に告げる。
「私だって、姫さまを浜辺へ一人で行かせてしまったのだもの、後悔しているわ」
奈緒子も一緒に詫びた。
「仕方がないですわ。あの仮面舞踏会で出会ったしまったお二人なのですから」
長である利佳の元には、千春からの情報が届いていた。
あの日、さくら姫と踊った相手は隣国の王子小狼であること。小狼も、姫に想いを寄せていることを、貴志より聞き出して、報告してきたのである。
「私たちは、姫様にお仕えするもの。姫さまの幸せを一番に考えなければなりませぬ。女性にとって、大切なのは、国でしょうか?いいえ。恋だと私思います」
残りの二人も力強く頷いた。
早速、三人は隣国の千春に諸事情を説明した文をしたため、信頼のおける寺田に預けた。寺田は利佳の許婚で、城の警備隊隊長である。姫と小狼をひき合せるのなら、彼に話しておかなければならない。
一部始終を聞いた寺田は、一瞬迷ったようだったが、利佳をはじめとする侍女たちの熱い思いに心を動かされ、承諾した。後は千春から山崎経由で小狼に、姫の事を伝えるだけだ。
王子からの返事は、瞬く間に返ってきた。利佳たちは、姫を中庭の東屋に連れ出すことにした。
その5につづく