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 小狼が気がついた時、そこはいつものエレベーターの中ではなかった。暗闇がほの明るく、その理由を探すべく首を巡らせると、瞳の端に桜色の気配があった。
「あれは・・・
       月峰神社のご神木」
 記憶の中にあるよりも、より華やかに咲き誇る桜の老木が彼を見下ろしている。月でも出ているのか、薄紅の花びらが白く闇に浮かび、微かな香りさえ漂っているようだった。

 あの夏の日、ご神木の元を訪ねたのは、今までさくらを見守っていた樹だったからだ。月峰神社では、さくらは3枚のクロウカードを捕まえている。勿論友枝小学校でも同じくらいのカードを捕まえているが、『迷』はさくらの力が足りなくて観月先生の力を借りて捕獲できた。『戻』のときは、ご神木が力を貸したとしか思えない。

・・・この樹は、さくらを、友枝の街を護っているんだな・・・
 そう感じていたからこそ、あの日、日ごと強くなる『無』との戦いになる前に、祈っておきたかった。

 さくらカードが奪われる度、さくらの魔力は徐々に弱まっていた。柊沢の話の通りなら、最後のカードが奪われた時、きっと自分のほうがさくらより魔力が強い筈だ。だから、さくらが『無』を封印する時、絶対傍にいなければならない。
 そう小狼は考えていた。
 『より魔力の強い者の一番大切な想い』
 さくらの想いはどんなものかわからないけれど、自分の中のさくらへの想いは自分にとって一番大切だ。あの笑顔を護ることが自分の望みなのだ。人も物も街全体も守りたい気持ちは嘘ではない。それでも、一番の強い願いはやはりさくらのことになってしまう。
・・・エレベーターの中で味わった想いは二度とごめんだからな・・・
 小狼は自嘲気味に笑った。あの苦しさに比べたら、他のどんなことも辛くはない。どんな目に会っても自分は構わない。あの時、自分の力の及ばないところへさくらを行かせたりは、決してしないと心に誓ったのだから。


「さくら?」
 しばし、木に手を添えて佇んだ後、小狼が何気に訊ねると、老木がふっと笑ったかのように花びらを散らした。
「何かあったのか?」
 小狼の問いに応えはない。ただ急に風が舞い、花吹雪が彼を包み込む。その中で彼はある確信を抱いた。

 

****

 

 友枝ホールの楽屋の入り口にさくらは立っていた。知世に言われたとおり、早めに到着できたのは、やはり昨日のことが尾を引いているからだろう。
 昨夜は夢も見ないで眠ってしまった。眠る前は小狼のことを思い出し、また涙が溢れたのだが、溜まっていた疲れのせいか、朝までぐっすりだったのだ。
 ケルベロスは『いい兆候や』といい、さくらの背中を笑顔で叩いて部屋から送り出した。それが嬉しくもあり、心配かけたという思いに少しさいなまされる。ダイニングでは、さくらの「おはよう」という声に、昨夜泊まった雪兎が、桃矢と朝食を用意しながら笑顔を向けた。あの後、さくらが何か話したわけではない。しかし、、二人にはさくらの不眠に関して一応決着がついたと了解しているようだった。
 その日は淡々と過ぎて、さくらは今、用意していた知世への花束を抱えて立っているのだった。

 楽屋はいくつかの大きい部屋に分かれている。廊下まで発声練習の声が流れてきて、出演者の緊張が伺える。ドアに張られた紙の文字を見て、さくらは知世の部屋をノックした。
「どうぞ。開いてますわ」
 中に入ってさくらは驚いた。楽屋の中には黒服のお姉さん方がカメラやら照明やらの機材を所狭しと並べ、その真ん中に小さなテーブルとノートパソコンが一台置いてあったのだ。
「さ、さくらちゃんはこちらへ」
 花束を渡す間もなくさくらはテーブルの脇に置かれた華奢な椅子に座らされてしまった。
「時間があまりありませんの。今日の様子でまた調整がついたなら、お誘いしますね」
 ノートパソコンのキーボードを手早く叩きながら知世はそう言った。
「これを耳に当てて」
 知世は笑顔で花束を受け取り、代わりにさくらにマイクつきヘッドフォンを手渡す。それをさくらは不安そうに頭にかぶる。目の前の画面はテレビのようになっている。
「カメラよし、マイクよし。では、始めましょう」
「ほぇ?」
 ディスプレイに『now loading』の文字がしばらく流れて、現れたのは・・・
・・・少し照れた顔をした、会いたかった人。

「・・・こんばんは」
「小狼くん? 小狼くんだ、え?どうして」
 さくらは思わず知世の服をつかみ、嬉しさと困惑を顔をに浮かべ尋ねる。
「母の会社で開発中のものですわ。IT革命などと言ってましたけど、パソコンでテレビ電話が出来ると考えてくだされば」
「テレビ電話?・・じゃ、小狼くんに私が見えてるの?」
 さくらが画面に目を移すと、コマ送りのように小狼が頷いた。
「ええ、勿論ですわ。今日の愛らしいさくらちゃんの姿は是非見ていただかなくては」
 知世はにっこりと画面に向かい、そしてさくらを見た。
 知世お手製の【特別な日用】さくらの衣装は、今朝方黒服おねえさまの手で木之本家へ届けられていた。クリスマス仕様ということらしく、贅沢にレースをあしらった、それでいて清楚な品の良いワンピースである。
 さくらの話す様子がもどかしいのか、画面にぎこちない動きで苺鈴が顔を出した。
「ちょっと、木之本さん、時間が勿体無いじゃないのよ!早く小狼と話したら」
「苺鈴ちゃん!!」
 さくらには驚くことばかりで小狼と話すどころではない。
「さくらちゃん、回線やなにやら、機械の調整が不安定で長い時間李くんの姿をお見せできないのです。4、50分ほどですけれど、どうか自由にお話なさってくださいね」
 画面の向こうの苺鈴が『そうよ』というふうに片目を軽くつむってみせた。
 さくらが戸惑っている間に、知世は黒服のお姉さん方と部屋を出て行ってしまった。

『さくら』
 あらためて懐かしい人に名前を呼ばれ、さくらの心に震えが走る。
「こんばんは、小狼くん。
 ・・・元気だった?あの、クリスマスカード届いてるよ、ありがとう」
 思いがけない出会いに、さくらの口からはとりとめなく言葉が出てくる。本当は伝えたいことがたくさんあるはずなのに、画面を通してでもその笑顔を見ているだけでさくらの胸が一杯になってしまうのだ。
『・・・いや。俺の方こそ、さくらに礼を言わないと』
「え?」
『夢を見ていたんだ。でも、もう心配なくなったみたいだな』
「え?小狼くんが?
 ・・・・わたしも
 ・・・私も夢を見ていたの」
 さくらは小狼に問われるままに自分の夢の話をした。その内容に小狼の眉がぴくりと動く。
『俺だけじゃなかったのか・・・』
「・・・うふふ」
『なんだ?』
「なんだか、夢の中では繋がっていたのかな、って思って」
『・・・そうかもしれない』
真顔だった小狼が、一瞬照れたようにさくらには見えた。
『それで。それで、夢を見なくなったのは、どうしてだ?』
 さくらはそう訊かれて画面から目をそらした。

「ねえ、偉」
「なんでしょう、苺鈴さま」
 小狼の部屋から連れ立ってリビングへ向かう廊下で苺鈴はふと何か言いかけた。言いかけて立ち止まる苺鈴の傍らに、偉はいつもの微笑を浮かべて、次の言葉を少しも焦らず待っている。
「・・・木之本さんって、やっぱりすごいよね。小狼と離れていても心が繋がっているわ。・・・ちょっと悔しいけど」
「そうでございますね」
 偉は、少し寂しげな苺鈴の声に頷いた。
「小狼さまやさくらさまはとても強い意志をお持ちです。それでも、お二人だけではなかなか辛いこともあるかもしれません。けれども、優しいご友人方が傍にいれば、どんなときでも無敵でございましょう。お二人には、苺鈴さまや大道寺さまがついているのですから『絶対、だいじょうぶ』ではないでしょうか」
 偉の心からの言葉に苺鈴の頬がうっすらと赤みを帯びた。自分が誰かの役に立てるーそれが大切に思う人であればなおのことー嬉しさと幸福感を呼び覚ます。そして、そのことを知っている人がいるということは、嬉しく、力強く励まされる思いがする。
「私はいつも苺鈴さまがとてもお優しい方だと知っておりますよ。今宵はイブです。苺鈴さまもお楽しみくださいませ」
「そうね、そうするわ」
 はつらつとした笑顔で苺鈴は、先へと歩き出した。今ごろ小狼とさくらが仲良く過ごす姿を思い浮かべながら。そう思い、そのことを喜べる自分を誇りに感じた。

「小狼くん、ありがとう」
『何を?』
「私を信じていてくれてありがとう。あの、【無】のカードを封印するとき必要な一番大切な想いをなくさないで済んだのは、小狼くんが私を信じていてくれたからなんだね」
「?」
 さくらが不意に言う言葉に小狼は首を傾ける。夏休みに友枝町を離れる時、【無】のカードの封印する話はあまり出来なかった筈だ。今更持ち出すのが不思議だった。
「私、どうしても知りたくて・・・。昨日月峰神社へ行ってきたの」
『月峰神社・・・馬鹿、魔法を使ったのか?』
 叱られてさくらは首をすくめた。でも、平気だ。小狼が怒ったのはさくらを心配したからだろう。そんな不器用な優しさに触れるのも久しぶりで、なんだか嬉しい。
『笑っている場合か。あやうく時の狭間に落ちてしまうところだったんだぞ』
「ごめんなさい。そうなの、落ちそうになってご神木に助けてもらったの」
 さくらがそう答えると、小狼は深いため息をついた。
『本当に目の離せないやつ・・・。みんなに心配かけていたんじゃないのか?無茶をして』
「う・・・うん、そうなんだけど。でも、私ずっと夢ばかり見ていて、小狼くんがあの時何を考えていたのか知りたくて」
 さくらはなんとか伝えようとした。
「・・・苦しかったの。逢えないからとか声が聞きたいからとかじゃなくて。私、小狼くんのために何かできないかなって、いつでも小狼くんの傍に居られなくても、役に立ちたいの」

 昨夜の夢は、やはり昨日のさくらの行動を暗示していたのだ。
「小狼くん、わたし、わたし・・・」
『遠いな』
「え?」
『香港と日本は俺たちにとって遠いな』
「う・・ん」
 改めて言われるまでもなく、さくらは日々遠い西の空を、その空の下に住む人のことを思い描いていた。思い描くたび、距離を感じてしまう。特に楽しいこと悲しいこと、何か特別なことがあった日は、小狼に話し掛けたいと強く思う。
『遠いけれど、俺はさくらのことをいつも傍にいるように感じる。こんなときおまえだったらどう思うんだろう、とか、きっとこんなお菓子は好きだろう、とか。ささいなことだけど、そんな風に心の中で会話すると、気持ちが落ち着く。離れていても一人ではないと思えるんだ。今も友枝の街にいるような感じさえすることもある』
「ほんとうに?小狼くんもそんな風に感じる日があるの?」
『う・・・ん。・・・だから、おまえはそのままで十分なんだ。役に立つとかなんとかではなくて、笑顔でいてくれたら、それで俺はどんなときも・・・』
「どんなときも?」
 小狼は頬をうっすらと染めて、言葉を切った。そして、逸らしていた視線をぱっと正面に向けると
『十分幸せなんだ』
ぽそりと呟いた。
 その言葉がさくらの耳に届いて、さくらの頬がみるみる紅く染まった。そして、気づかぬうちに一筋の涙がこぼれ出た。
『おい、だいじょうぶか』
 さくらは言葉にならなかった。そして、とても眩しい笑顔を小狼に見せた。この笑顔が自分の支えであったと、小狼は思う。

  結局、あの夏、さくらは自分の力で友枝の街を守り通した。俺の方がいつも役に立っているのか、さくらと共に歩いていけるのか、そんなことを悩む日も時々襲ってきた。けれど、今日苺鈴や大道寺のおかげで、この笑顔を見れて・・・自分が様々な人に支えられていることを感謝した。

―『じゃ、またな』
―「うん、またね。小狼くん」

 しばらくさくらは停止画面を眺めていた。さっきまでの時間が幻のように思えるけれど、耳の中には小狼の声がまだ残っている。胸の奥が暖かくて深く満たされている感じがした。その想いを抱えるように、さくらは自分の両肩に腕を回す。
 ドアがそっと開いて、知世が顔を出した。
「さくらちゃん、短い時間でごめんなさい。もう少しゆっくりできたらよかったのですけど」
 振り返ったさくらが涙を浮かべている。知世の胸に小さな痛みが走る。よかれと思ったことだったが、かえって切ない結果になってしまったのだろうか。けれど、すぐに満面の笑みに変わった。
「知世ちゃん!ありがとう、本当にありがとう。短くても小狼くんに会えたんだもの。とっても嬉しかったよ」
 その笑顔に翳りはもうない。さくらの心からの笑顔が知世にも嬉しかった。
 ドアにノックの音がして、園美が顔を覗かせた。
「知世、席にいるわね。あら、さくらちゃん、来てくれたのね。じゃ、一緒に行きましょう」
「あ、はい。知世ちゃん、頑張ってね」
「ええ。それでは、コンサート楽しんでくださいね」

 明るい舞台の上、天上の歌声が響き渡る。園美と藤隆にはさまれた席で、さくらはうっとりと聞き入った。
・・・いつか小狼くんと一緒に聞きたいな
・・・この声が小狼くんに届きますように

fin


Merry Cristmas

Pochi

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