さくらは教室の入り口で知世の姿を探す。
結局朝早く起きたにもかかわらず、いつもの時間に学校へ辿り着いてしまった。途中歩きながら考え込んでいたからである。
父に言われたからには、今日の放課後、知世を家に誘わないわけにはいかない。でも、その後神社へ行くのに、どう言訳したらいいのだろう。そんなことを考えていたおかげで、歩みは遅かったのだ。
知世は自分の席に座り楽譜を眺めていた。首を軽く振りながらリズムをとっているようでもある。その姿に目を留めながら、さくらは席に鞄を下ろした。
「知世ちゃん、おはよう」
「さくらちゃん、おはようございます」
声を聞くと知世は譜面から目を離し、さくらに向かい、にっこりと微笑む。
「それ、次のコンサートの曲?なんだか難しそう」
楽譜には細かい音符がたくさん並んでいる。上下に分かれて、パートも多い曲のようだ。さくらも音楽は好きだけれど、込み入った楽譜は手助けが欲しい方だった。
「いいえ。明日ミサで歌う曲ですわ。とても美しい曲なんですのよ?」
さくらは不意に思い出した。そうだった。今年はイブの日に商店街企画のクリスマスコンサートが開か
れて、友枝小合唱団は5、6曲歌うことになっていたはずだ。
「あ、あれ?明日だっけ。早いなぁ、もう」
慌てて笑いながら謝るさくらを知世は痛々しく思う。このところさくらの心はどこかへ行っていて、皆と話をしながら頷いてはいても内容を聞いていないのだった。
「ええ。終業式が終わったら、すぐに会場へ行って、準備しますの。夜はさくらちゃんもいらっしゃれるので
しょう?」
「勿論!お父さんやお兄ちゃんたちと聞きに行くよ」
「有難うございます。楽屋へ顔を出してくださいね」
「うん。お花を持っていくね。ところで、今日お父さんがケーキを焼いてくれて、知世ちゃんとどうぞ、って。
放課後、空いてる?」
それを聞いて、知世はたいそうがっかりして言った。
「残念ですわ。今日は、舞台照明とリハーサルがあるんですの。最近さくらちゃんとゆっくりお話していま
せんし、ぜひとも伺いたいところですのに・・・」
さくらは、内心知世には悪いと思いながら、断られたことに少しほっとする。
「・・・・そうだよね?明日が本番なんだもの。また、今度誘うね」
寺田先生が教室に入ってきたので、話はそこで途切れた。隣の席に『ごめんね』と言いいながら座る
さくらを知世は首を傾げて見ている。
『なにかあったのかもしれませんわ。今日は早めに終わっていただくようにしないと』
その日、やはりさくらは眠そうに過ごした。午前で終わりなのに、帰りの会では少しうとうとしかけている。
「さくらちゃん、終わりましたわ」
「ほぇ・・・あ、知世ちゃん、ありがとう」
そそくさと鞄に学用品を入れ、さくらは立ち上がる。
「知世ちゃん、それじゃ、また、明日」
「さくらちゃんも。気をつけてお帰りくださいね」
ありがとう、と微笑みながらさくらは帰っていった。そんな普通を装うさくらが気になる知世だった。
夕方、さくらはケルベロスと一緒に月峰神社に出かけた。
人気のない境内の中に入り、ご神木の前に立つ。冬の最中、幹も枝も素肌を北風にさらされていても、硬い木の芽には生命の鼓動が確かに息づいている。長い間そこで友枝の街を見守っていた、力強い感触がある。その幹に触れながら梢を見上げていると人の気配がした。
「さくらちゃん」
「え??」
振り返ったさくらに、雪兎の姿が目に入った。
「雪兎さん・・・。でも、どうして?夜に家に来る筈じゃ・・・」
雪兎はにっこり笑って大きな紙を見せた。画用紙いっぱいに字が殴り書きされている。
「『きようのゆうがた、さくらのために、じんじゃへこい。ゆえへ』
・・・ケロちゃんの字」
さくらが読み上げると、背中のリュックからそれまで隠れていたケルベロスが出てきた。
「そうや、わいがユエに手紙書いたんや。『戻』のカードを使うんやったら、あいつの力があったほうがええ思ってな」
「月の属性・・・だから?」
「そうや。さくらは久しぶりに魔法を使うんや。注意しておいて損はない」
ケルベロスは腕を組み、しみじみとした調子で言った。
周囲に一瞬光が満ちた。雪兎の声がひんやりとしたものに変わった。ふうわりと羽根が広がる。
「おまえの兄にも頼まれた。留守を頼むと。きっと、何かあると思ったのだろう」
「ユエ・・・さん・・・」
さくらは、そう言ったまま、二人を見詰め、黙り込んでしまった。
夕日が沈むのは早い。既に3人の姿は薄暮の中に飲み込まれつつあった。
「さくら?」
堪りかねたようにケルベロスが顔を覗き込む。
「私がわがまま言ったから、皆に心配かけてるんだね?ごめんなさい。でも・・・」
「でも、小僧に会いたいんやろ?夢にうなされて辛いのはさくらやないか。わいらが心配なんは、さくらが
気持ちよう暮らせないからなんや。わがままやない」
ユエも頷いている。誰もが自分のことを見守っていてくれていると、今更のようにさくらは実感するのだった。
「ケロちゃん、ユエさん、どうも有難う。行って自分の目で確かめてくるね」
何か吹っ切れたように、明るい調子でさくらは告げた。
「そうや、その笑顔を忘れたらあかん」
「向こうへ行っても見てくるだけだ。実際に話をしたり触れたりすることは出来ない。解っているな?」
ユエの言葉にこっくりとする。言われるまでもなくさくらは確かめに行くのだ。あの日、小狼が何を考えて、どんな風に行動したかを。夢のままで、泣いたままで終わらないように。 首から下がっている鍵を取り出す。こうして手に取り、呪文を口にするのも久しぶりだ。
『ユエさん、カードさんたち、私に力を貸してね』
想いを込めて差し出すとさくらは唱えた。
「封印解除」
小さな星の鍵が光を発して魔法の杖に変化する。その杖とポケットの中のさくらカードを握り締める。
「私の力は、おまえが魔法の力を制御するのを手伝うだけだ。無理をすると、カードが暴走することもある。そうなったら一人で対処しなければならない」
二人を振り返ったさくらにユエが厳しい声で言う。
「ユエ、難しいこと言うな」
ケルベロスが、さくらの顔が曇ったのを見て、間に入った。
「さくら、長居はできん。あくまで見てくるだけや。あんまり長いこと過去におると、カードがさくらの魔力を自分のものにしてしまうからな。そうなると、暴走して、さくらが過去の時間から戻って来れなくなるかもしれん」
「わかったよ。気をつけるね」
「たぶん、己が望めば移動することが可能な筈だ。あまり感情が昂ぶるようなら、一度戻った方がいい。カードが同調すると、手におえなくなる。たとえ、私が押さえようとしても」
「ユエさん、有難う。よろしくお願いします」
「『リターン』」
ご神木が真っ白に輝く。その中にさくらが吸い込まれていく。
「さくら、しっかりしぃや!待ってるからなぁぁ〜」
ケルベロスが力いっぱい叫んでいる。その木霊を遠くに聞きながら、まばゆい光を抜けてさくらが目にしたのは、雨のご神木だった。
「小狼くんはどこ?」
一瞬にして、さくらは学校の裏庭にいた。
「さくらちゃんは?」
ご神木に吸い込まれたさくらを思いながらユエとケルベロスが顔を見合わせていると、不意に背後で声がした。
「知世やないか。ここに来たちゅうことは・・・・。何やさくら、教えたんか?」
ケルベロスはさくらが何も言わなかったことを思い出す。いつ、気が変わったのか。
「いいえ、さくらちゃんは何もおっしゃいませんでした。・・・でも、今日の様子がおかしかったので・・・」
知世はよほど急いでいたのだろう、息を切らせて話す。
「たった今、出かけたところだ。もはや、待つほか術はない」
ユエは静かに答えた。 *
*
*
「もし、本当にそれしか方法がないなら、仕方ないだろう」
小狼くんの声だ。ひどく辛そうに聞こえる。あの時はそう感じる余裕もなかった・・・。
「・・・小狼くん?一番大事な気持ちがなくなってもいいの?」
「そうしなければ、街や人が無くなってしまうなら」
淡々としているようで、耳を澄ませば苦しげな彼の声。誰よりも真面目で正義感が強い彼なら、そう答えるしかなかったのだ、と、今なら思える。
パシャパシャ・・・
水しぶきをあげ、走る音。
私が泣いている。声を押さえきれずに泣きながら走っていく。小狼くんは、じっと前を見詰めたままだ。何か思いつめたように、真剣な眼差しを止まない雨に向けている・・・。
小狼くん、何を考えているの?
私が悲しみに溺れていた間、貴方はそんな顔で何かを決意していたの?
不意に周りが揺らめく。薄れ始めた小狼くんが後ろを振り向いた。唇の動きがかすかに見える。
『さ・く・ら』
*
*
* 変わって聞こえてきたのはにぎやかな女の子の声。
「・・・大道寺さんったら、相変わらずなのねぇ。でも、それは?」
「ええ!これはペアのバトルスーツですわ」
窓越しに二つの服を苺鈴に広げて見せる知世の姿が目に入った。 ここは知世ちゃんの家だ。あの服は、あのときの。
「ああ、それで、私に小狼のサイズ調べてって、言っていたのね」
「はい、そうですわ」
知世があまりに幸せそうに微笑むので、苺鈴も二の句が告げない。
「李くんが日本にいらっしゃたら、今度は是非さくらちゃんとペアのお洋服を着ていただこうと思っていましたの!!
苺鈴ちゃんのおかげで私の夢がかないましたわ」
目を潤ませて喜ぶ姿には流石の苺鈴も呆れる以外なかった。
「そういえば、小狼、帰ってきてたかしら?顔出しにくいのかな?」
「・・・そうですわね。さくらちゃんがお話あるみたいでしたから、先に帰ってきましたけれど」
小狼くん、まだ、知世ちゃん家に戻っていないんだ・・・
あのまま、学校にいたのかな? 「あ、帰ってきたんじゃない?」
ドアが開き、噂の人物が顔を覗かせた。
「夕食の仕度ができたそうだ。呼びに来た」
「有難うございます、李くん。ただいま、参りますわ」
ドアが閉まると苺鈴がささやいた。
「なんか、今日も返事もらえなかったみたいね、小狼、変わんない」
「お二人とも、昨日から少し緊張されていますわ。何か事件が起こっているのかもしれません」
「大道寺さんったら、そういうことも解るの?千里眼なのねぇ。私にはちっとも」
頭の脇で両手を振っている苺鈴。
「おほほ。千里眼ではありません、ただ、よく見てよく聞いているだけのこと。さ、終わりましたわ。明日、なでしこ祭が終わったら記念撮影させていただきましょう」
「・・・・・はぁ。好きねぇ」
二人は笑い声を上げて、部屋を後にした。 私と小狼くんのこと、二人は気にしていてくれたんだ。いつも有難う、知世ちゃん、苺鈴ちゃん。 また、周囲が霞みだす。さくらの気持ちが動くと敏感に読み取って場面を変えていくようだ。 *
*
* 「大丈夫ですよ、先生。ね?李くん」
怪我の痛みに耐えながら、山崎が心配して見ている小狼に声をかけた。
誰しも、彼が適役に思えた。さくらが姫役なら、山崎以外に王子役をこなせるのは彼しかいない。
ただ・・・。
劇の時間まで半日を切っていた。毎日練習を見ていたからといって、早々台詞が頭に入っているものだろうか?
「李、引き受けてくれるか?」
寺田先生が不安そうに訊いた。小狼は、ただ頷いた。 「李くん、早速だけど、台本。王子の台詞、確認してね。変更箇所も赤字で書いてあるから」
カントクの奈緒子が話している。
「ああ」
「それから、衣装合わせしておいてくれる?早めに楽屋に来て、利佳ちゃんか知世ちゃんに直してもらって・・・」
「何時までに行けばいいんだ?」
「えっと、これからお昼食べて、一休みしたら、皆であっちへ行くの。そこで、リハーサルだよ?」
「・・・そうか。じゃ、出かける前にちょっと寄るところがあるんだが、今行ってきていいか?」
「そうだね、2時までに向こうへ来てくれればいいよ」
軽く頷くと小狼は昇降口への階段を下りていった。
*
*
* ここは・・・ご神木?
さくらの目の前には桜の木がさわさわと葉を繁らせ、悠然と立っている。
誰かが近づく足音に、さくらは息を潜めた。 「俺はさくらの想いを守りたい」
小狼くんの声だ!
ご神木の向こう側に立っている気配がする。幹に触れながら梢を見上げた彼の姿を盗み見する。
その表情は今までのどんなときより真剣で怖いほどだった。 「さくらなら、絶対だいじょうぶだ。だから俺も自分を信じる」
小狼は両手をぐっと握り締め呟いた。
「俺たちを見ていてくれ。そして、さくらの力になってくれ」
目を瞑り、桜の幹に寄りかかる。回した腕がさくらの居る方へ伸びてきて、思わず心臓が高鳴る。 あと少し指先が伸びてきたなら・・・
すでにさくらは涙をこらえ切れない。目の前の指に触れ握り締めて、泣いてしまったことを詫びたくなる。『私、何も知らないでいてごめんなさい。小狼くんは【大切な想い】を守ろうとしていたんだね』
さくらは思わず一歩足を踏み出した。見るだけだと言い聞かせられていたが、今は構っていられない。小狼が立ち去る前にせめて一言・・・。
高まる鼓動は耳鳴りすら起こしそうで、顔は火照って身体は暑くてたまらない。 だが、空間は急に歪み始め小狼の姿はぼやけて見えなくなる。
走馬灯のように、【無】のカードとの争いの様子が周囲に流れていく。
「待って!いやだ、小狼くん!!」
さくらの叫びはもうどこへも届かない・・・ 涙が止まらないさくらは、時間の流れにただ流され始めた。その彼女を何か力強い気配が捕まえた。 *
*
* 「さくらちゃん!」
不意に名前を呼ばれ、さくらは振り返る。
「知世ちゃん?」
そこに知世がいることに驚きながらも、さくらはしばしご神木を見上げた。
ご神木は光を失い、いつもの桜の木に戻っている。すでに夕闇が漂い始めて、再び夜が訪れようとしていた。
帰ってきちゃった・・・
まだ小狼くんのところに居たかったのに・・・
あの瞳をあの声を
傍に感じていたかった・・・
・・・もう一度 さくらは足元に落ちているカードに手を伸ばした。 「さくら!それはできんっ!!もう今日は無理や」
背後からケルベロスの声が飛んだ。思わずぎくりとして肩越しに声の主を見る。ユエもその隣のケルベロスも悲しい目で首を振った。泣き顔が痛々しいさくらの気持ちを考えても、もう魔力を使い果たした状態では諦めるしかない。
さくらは、その場にがっくりとひざまずいた。
本当は自分でも無理なのはわかっている。
さくらがあまりに心を強く動かされたために、時空の狭間に落ちてしまったのをご神木は過去から現在へと、連れ戻してくれたのだ。ユエの力も及ばないカードの暴走を食い止めてくれたのだから感謝しなくては・・・。
それでも、と、さくらは思うのだった。
あと少しだけ、一緒にいたかった。
せめて、本当に会える日までの別れを心の中で言いたかった・・・ 「さくらちゃん、明日必ず楽屋へいらしてくださいね?」
知世はさくらの肩にそっと両手をかけてささやいた。
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