迷子の心

 千春は商店街から帰宅するところだった。明日のバレンタイン用のカードを選んでいたのである。
「あ〜あ、山崎くんのチョコ、どうしよう」
 毎年渡すのが恒例だったけれど、今年は今までとは全然違う。あの綺麗な女の人について、彼は何も言ってくれないままだった。
「利佳ちゃんは『信じてあげたら』っていうけど・・・」
 千春は空を仰いで、ため息をついた。自分ひとりではなんだか心もとない。
「千春ちゃん」
 突然名前を呼ばれて、慌てて浮かびかけた涙を手の甲でぬぐう。
「あれ?さくらちゃん。やっぱり明日のお買い物?」
 笑顔を作り訊ねる千春に、さくらは軽く首を振った。
「千春ちゃんに会いたかったんだよ」
「?」
「山崎くんはチョコレート待ってるよ。信じて」
 千春の止まったはずの涙が目に浮かんだ。誰かに言って欲しかった言葉を、今さくらが口にしてくれたから。
「・・・さくらちゃん、どうして」
「私も迷っていたから。でも、もうだいじょうぶ。信じる女の子は幸せになれるんだよ」
 さくらの笑顔は眩しくて、千春の涙は頬を滑り落ちた。それを見ながらさくらは千春の手を両手で包む。
「千春ちゃんのその笑顔を忘れないでね」
「ありがとう、さくらちゃん」
 さくらが差し出したハンカチを受け取り、軽く目元を押さえて、もう一度話し掛けようとすると、さくらの姿はもうなかった。あちこち見回す千春の頭上、白い鳥が飛んでいった。
 

 翌日、千春は山崎からやっと理由を聞かされる。年上の彼女の少し哀しい話を。

「僕に良く似た弟さんがいてね、
 小さい頃、自分のせいで弟さんの右目が見えなくなってしまって、ずっと後悔していたんだって。
 町の中で僕を見かけて、あまりにも似ていたからとても驚いたらしいよ。
 こんなほら吹きがそんなにいるわけはない、だって?
 ほら、世の中には3人同じ顔の人がいるって言うじゃない。

 ほんと、ほんと。いつものほらじゃないよ、千春ちゃん。

 初めて会ったとき、今はお互い離れて暮らしているから、何か用があって会いにきたのかと思ったんだって。
 というのも、彼女プロポーズされたそうなんだ。
 ただ、怪我をさせた自分が、弟さんより先に幸せになっていいかどうか、恋人にも言えないで、返事を待ってもらっていたそうなんだよ。
 僕はきっと弟さんは許してくれているって言ったんだ。そんなに悩み苦しんでいるお姉さんをそのまま恨んだりは出来ないって。
 僕がそう言ったらね、勇気が湧いてきたんだって。

 昨日、弟さんに謝ったら、許してくれて、結婚のことも心から祝ってくれたんだって電話があった。
 とても嬉しそうな声だったよ。勿論、恋人にもきちんと話したんだって。
 弟さんにも『私があなたの右目になるわ』って言ってくれた彼女ができたんだ、って、すごく喜んでいた。

 『貴志くんはどうなの?』って聞かれてね。
 僕、千春ちゃんと仲たがいしているって話したら恐縮されっちゃった。『やっぱり隠し事はいけないよね』ってさ。僕は『彼女によ〜く謝るのよ』って、怒られちゃったんだよ。

 千春ちゃん?泣いてるの?
 最初から話してくれればよかったのにって?
 うん、僕もそう思ったけど、あの人、まだ苦しんでいたから誰にも話さないって決めたんだよ。
 でもね、千春ちゃんがずっと僕を信じて待っていてくれたから、とても嬉しかったよ。
 本当に。
 今年のチョコは半分諦めていたからね。

 馬鹿ね?うん、馬鹿だよね。こんな僕でいいのかな?
 あ、千春ちゃん、抱きついたら倒れちゃうよ・・・」

 千春の顔に心からの笑顔が戻ったのは言うまでもない。そして、山崎得意のほら話も。
「千春ちゃんが傍にいないと、うまく話せないんだよ。だから、ずっと傍にいて?千春ちゃん」

 

 

 廊下を歩いているうちに、小狼は激しい気だるさを感じた。思ったより魔力を消費していたのだろう。 無言のままなんとか知世の部屋へ戻った三人を迎えたのは・・・満面の春。
「小狼くん!!有難う、見つけてくれて・・・」
 さくらが花のように微笑み、駆け寄ってきて小狼を抱きしめた。くたくただった身体が、一瞬にして癒されるのを感じる。ふんわりと包まれ、ここ幾日かの疲れも哀しみも身体の中から溶けていってしまった。
「さくらちゃん、お帰りなさい・・・」
 そう言ったきり、知世も言葉が続かない。
「さくらぁ〜〜。心配したんやで〜」
「ごめんね、ケロちゃん。ありがとう、心配してくれて。知世ちゃんもありがとう」
 さくらの背中に頭をこすりつけるケルベロスもまた、言葉が出なかった。

 ひとしきり4人は互いに質問したり答えたりして、ようやく皆が落ち着いたのはすっかり暗くなった頃。知世がお茶の用意をして一息いれる。
「さあ、ここからはお二人の時間ですわ」
 さくらと小狼が頬を染めてお互いの顔を見ている間に、知世はケルベロスとともに、部屋を出た。

「知世ちゃんたら」
 さくらと小狼は『お二人の時間』などと言われて、思わず照れて身体が固まってしまう。知世たちが去ったあとも、無言の時間が続いた。それを先に破ったのは小狼だった。
「さくら・・・」
「なぁに?」
 さくらのその何気ない笑顔を目にするたび、なくさないで済んで本当によかった、と、心底小狼は思った。さくらが気持ちを取り戻さなかったら一生後悔をし続けることになるだろう。己の不甲斐なさを嘆きながら、ばらばらになったさくらカードの行方を捜し、後悔をする日々。さくらのピンチに助けられなくては何のために日本へ戻ったのか。
 しかし、その日は来なかった。
「・・・よかった」
 さくらの右肩にことんと首を預けた小狼は一言だけ言った。それが全てだった。
 さくらは無言で頷くだけだった。そっと頭を重ねて目を瞑る。
 小狼くんを忘れていたとは思えない、でも、あの時は自分が心を閉ざしてしまったのだ。そんなさくらを見捨てずに、彼はメイズの中迷うことなく探し出してくれた。二つの心を持った自分でいいのだ、と言ってくれた。
「ほんとに、有難う。小狼くん」
 さくらが自分の名前を呼んでいる。何度でも呼んで欲しいくらい、その声の響きに身を任せる。
「おまえは馬鹿だ」
 そういいながらも背中に回した腕に力が入る。もうなくしたくないと言わんばかりに抱き寄せる。
「・・・そうだね」
「馬鹿。普通は『違う』と言うものだ」
「だって・・・。小狼くんに嘘をついたもの。約束も破っちゃった。やっぱり馬鹿なんだよ、私」
 さくらは言いながら涙が浮かんできた。あの時の悲しみがまだ胸に残っていたようで、顔を伏せる。
「あの人にやきもちを焼いたの。それを小狼くんに知られるのが怖かった。嫌われてしまうと思って、こんな私じゃ、小狼くん、好きになってくれないと思って、わたし・・・」
「・・・だから、馬鹿なんだ。さくらはさくらだ。どんなことを考えていても、それが、おまえが一生懸命考えてのことなら、そのことで嫌いになったりしない。それよりも、俺にも手助けさせてくれ。一人で抱え込むな」
 小狼が真摯な眼差しでさくらを見ている。さくらはこっくりと頷き、応えた。
「辛いときは助けて欲しいって、ちゃんと言うね」
「言ってくれないと、俺にはわからない。それは困るんだ」
 小狼が本当に困りきった顔を見せたので、さくらはふっと笑った。こんな表情を見せてくれるのは心を許してくれているからだろうか。他の人の前では決して見せることがない。
「小狼くんも自分ひとりで抱え込まないでね。私、役に立ちたいの」
「ああ、きっと」
 


 

 

「やっぱり、チョコレートは予定通りか」
「ケロちゃんは、余ったらいいと思っていらっしゃったのですか?」
「・・・・・たくさん食べれたら、それはええこっちゃ。けどな、今回は・・・」
 厨房で知世の片付けの手伝いをしながら、ケルベロスの目は自然に知世の部屋の方へ行く。
「今回は小僧に譲ってやる。カードをばらばらにしないで済んだんは小僧のおかげやからな。
 ・・・ほんまは原因やけど」
 ぽそりと小声で言ったのは感謝するのが口惜しいからなのかもしれない。
「そうですわね。無事間に合って本当によかったですわ」
 知世はそう言って、戸棚からケルベロスにチョコマフィンを差し出した。
「ともよ〜〜♪」
 ケルベロスはぱっと見て叫んだ。声に嬉しさを隠し切れない。
「たくさん召し上がってくださいね。今回はいろいろとお疲れ様でしたもの」
 そう言われる前に、すでにまるまる一個がケルベロスの口の中に入っていた。知世はくすりと笑いながら、もう一度お茶を入れる用意をした。あと少ししたら、さくらちゃんたちにもお茶を、と、思いながら。
「そいえば、知世の賭けって何やった?」
「え?それは『さくらちゃんなら絶対大丈夫』ということですわ。この賭けは外れたことがありませんの」
 おほほほ、という知世の声にケルベロスは日常が戻ってきたのを感じた。

 


「私、小狼くんのこと、信じていると思って、本当はそうじゃなかったんだね。」
 並んで窓辺に立ちながら、夜の闇を見詰める。
「自分を信じていないと相手を信じていることができないってわかったの。不安に思うのは自分を信じていないからだって」
 隣で懸命に話すさくらの様子は以前と比べ物にならないくらい落ち着いている。
「俺だって、やきもちを焼いたことはある・・・」
「ほんとっ!?」
「・・・そんなに大きな声を出すな。かなり、昔だけどな」
 小狼の脳裏には、あのクロウ・リードの生まれ変わりという少年の姿が浮かんだ。小学校時代、自分でも気がつかなかった恋心を、随分からかわれて何度いらいらしたことか。
「聞きたいよ、小狼くん。昔って、いつ?」
 すっかり元のようになったさくらが小狼の顔を覗き込む。
「おまえな・・・。もう忘れた」
 ふいとそっぽを向く。案の定さくらは拗ねた顔をした。
「え〜、聞きたかったのにぃ」
 小狼が軽く額を小突くと、さくらが少しおどけた表情を見せ、そっと小狼の右手に自分の左手を滑り込ませる。すっかりいつものさくらに戻った様子が小狼には嬉しかった。

「あ、そうだ。これ、小狼くんに」
 さくらは思い出して隅のテーブルから小さな包みを持ってきた。透明なフィルムと透ける和紙で綺麗にラッピングされた三日月型のチョコレートを差し出す。
「名前を入れられなかったけど、これは小狼くんの分なの。今日会って、とてもあげたいなって思って・・・」
「今日?名前も知らなかったのに?」
「そうなんだけどね。知世ちゃんのために探すって聞いて、なんだか気になって・・・」
 そうさくらは言い、はにかんでうつむいた。
「たぶん、何度でも小狼くんに恋してしまう・・・」
 小狼は両手でさくらの手を包み込んだ。自分もきっとさくらに何度でも恋するだろうと思った。
「一日早いけど、今渡したいなって、思ったから」
「ありがとう、とても嬉しいよ」
 微笑んで受け取る小狼の顔を見たら、さくらの身体が自然に動いた。両腕を彼の肩に回し、耳元にささやいて、彼の頬に唇を寄せる。
「小狼くんが大好き・・・」

 

 Happy Valentineday

 

 

【おしまい】

 

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予定の数倍も長くなった話をのろのろと書いてしまいました
途中励ましてくださいました皆様に感謝します
少しでも心に残れれば嬉しいです
Pochi