- 艦内のあちこちで喚き怒鳴り散らして新任の少尉が何処にいるのかを聞き回ったゴドノフが、その少尉の居所を掴むのにはそれほど時間は必要なかった。なにしろ、ムサイ級巡洋艦の艦内はそれほど広くなかったし、やはり新任の少尉、それもモビルスーツパイロットともなれば、それなりの注目の的でもあったからだ。
- 勢い込んでその場所、食堂にまでやって来たゴドノフだったけれど、その勢いは結局のところ行き場を失った。実物の少尉を見たときに、怒りをぶちまける術を失ったのだ。
- 食事の時間をとうに過ぎていたこともあってウンディーネの食堂は、閑散としていた。見知ったミサイル要員達、酒が好きでいつも艦長から小言を食らっている機関班長、そして見知らぬ顔が3人。
- 怒鳴り散らそうとした口は、開いたまま怒声を飲み込まざるをえなかった。そうなったのは、その3人が、新しいパイロット達に違いないというのはすぐに分かったのだが、それを自分自身に理解させるのに時間が掛かってしまったせいだった。
- まず、分かったのは、ごつい男達がパイロット記章を付けている曹長だということ。曹長では、どうあっても小隊指揮官のわけが無かった。逆に、この2人のうちどちらかがそうだったのなら、食堂は一大レクリエーションの場となって、またまたコック長に渋面を作らせたことだろう。次に、ゴドノフの頭の中を巡ったことは、なんで大男達と子供が酒を飲んでいるんだ?ということだった。そして、次々に流れ込んでくる視覚が更にゴドノフを混乱させた。なんで?ジオンの軍服を?しかも士官服を?胸につけてるのはパイロット記章??それに、あれは軍功章に、金的??
- そんなことを考える間に、勢いを付けて食堂に乗り込んできたゴドノフは、その士官服の少女の前にまで小走りにやってきてしまっていた。思い返せば、さどかし間抜けヅラだったに違いない。その新任少尉の、目の前にまで来ているのに、事態をまだ完全には理解していなかったのだから。
- おまけに、最初に口を開いたのは、小首を少し傾げて不思議そうにゴドノフを見つめていた少女の方だった。
- 満面に笑みを浮かべられて立ち上がった少女に「エルフィン・サクラ少尉です」と、名乗られて右手を差し出されては、もうどうしようもなかった。つまり気勢を制されてしまったのだ。
- テリブル・ピンクが女少尉であるということは、知っていたにもかかわらず、食堂に乗り込むまで男の指揮官だと頭に血が上った時点で思い込んでしまっていたことも、こんなにばつの悪い思いをしてしまう一因だった。それにしても、これは後から自分に対しての言訳だったけれど、もうちょっとでも軍人らしい女士官だったら、もう少し、そう、ほんの少しだけ面目を保てたような気がしてもいた。
- どれほど、自分が正しいと思ってはいても、少女のような少尉にたいして怒鳴り散らすのは、どう考えても大人げがない。少なくとも、他の誰から見たばあいに自分の方が悪いと思われるに決まっている。それが、同じ少尉同士であったとしてもだ。毛むくじゃらで見るからに荒々しい自分と、この少女のような少尉とではどういう結果に終わっても、結局は自分が悪者になってしまうに違いなかった。
- いや、そういう意味ではサクラ少尉の人当たりが上手いのだろう。結局、ゴドノフにそういう行動をさせなかったのだから。
- ゴドノフも、思わず右手を差し出してしまった。
- 「アンドレイ・ゴドノフ少尉だ、ここでは一応先任だ、よろしく頼む。後ろのお2人さんもな」
- 自然と、ゴドノフの言葉遣いは、優しいものにならざるをえなかった。
- 「ハイ、ウンディーネには着任したばかりなので解らないことも多いです。リックマン、オルトマン共々よろしくお願いします」
- 身体と同じように華奢な手を握りつぶさないように気配りすらして、ゴドノフは、サクラ少尉と握手をした。
- 「ハイ、少尉殿」
- 「お願いします、少尉殿」
- 2人の曹長が、行儀良く立ち上がって挨拶をし、こちらは力強く握手をした。
- こいつら飼いならされやがってと、一瞬思うが、それもこの少尉の笑顔を見れば納得がいかないでもなかった。この自分が、言いたいことを言えずにこうして慣れない笑顔で対しているのだから。
- 「じゃ、機体整備があるので、これで失礼する」
- (まあ、機体の塗り替えの件は、今でなくとも良かろう・・・)
- 自分に微かな言い訳をしながら、ゴドノフは、どうみてもちぐはぐな言葉を残して回れ右をした。
- 勢い込んで食堂に入ってきたゴドノフを見て、何事かを期待してこの4人のやり取りに注目していた兵士達も、和やかになっていくのを見て半ば安堵し、半ば残念がって注意を自分たちの会話の中に戻してしまった。
- (まあ)
- と、ゴドノフは思った。
- 少なくとも話したかぎりではこの新任の若い女少尉が、ただの酔狂な士官でないことが分かったのは収穫だった。同じ少尉であっても、しっかりとゴドノフのことを先任士官として扱っていたし、部下の統制もとれている様子だった。
- ジオンにあっては、モビルスーツのパイロットというのは誰でもなれるわけではないのだ。パイロットである上に小隊を任されている以上、自分には及ばないにしてもそこそこの技量を持っているのは間違いない。ウソでなければ金的を付けているということは、連邦の巡洋艦なり戦艦を撃破したことも恐らく確かなのだろう。この点が、本当ならば、ゴドノフでさえ経験したことのない戦果を上げているパイロットということになる。
- それに、とゴドノフは、考えていた。自分は、まだこの女少尉の実戦を見たわけではないのだ。機体の色がどうのということは、実戦を見てからでも遅くはないと思えたのだ。話にもならない戦闘をしたときには、今度こそ首根っこを押さえてでも色を変えさせればいいことなのだ。
- それでも、まさかあのサクラ少尉が、この笑顔だけで今の身分を手にしたのではあるまいか?という疑念を微かながら捨てきれないゴドノフだった。それほど、サクラ少尉の笑顔は、人を惹きつける何かがあった。
-
- それが、全くの杞憂であると分かるのには、2度の戦闘で十分だった。『ウンディーネ』は、3回の哨戒活動で2度、連邦軍の補給部隊を捕捉することに成功し、それなりの戦果を挙げたのだ。
- 3回、それぞれ10日ないし2週間の哨戒任務で2度、連邦軍を捕捉できたのは、単なる運というよりは、艦長のスミス中佐の的確な航路指示による哨戒活動によるところが大きかった。広大な宇宙空間で敵の艦艇を捕捉することは思う以上に難しいことなのだ。また仮に捕捉しても推進剤の残量や、発見時の双方の相対進路、相対速度などによっても最終的に捕捉できるかどうかは変わってくる。そういった種々の条件をクリアしてなお、敵を発見しても捕捉できないこともある。宇宙空間では、お互いが交戦を求めていなければ、敵を捕捉するということは、とてつもない困難を伴うのだ。
- それを2度も可能にしたスミス艦長の操艦術は、ゴドノフにいわせれば、芸術の域なのだ。
- そして、2度の交戦、というよりは一方的な殺戮といったほうが状況を的確に表している、では、サクラ少尉の小隊は、常に後衛を務めてくれたのだ。決してしゃしゃり出ようとすることなく、しかも的確な支援をサクラ少尉は完ぺきにこなしてくれたのだ。
- おかげで、ゴドノフの小隊は、後顧の憂い無く、連邦軍を殲滅することに専念できた。その結果、これまでの1小隊編成では、望むことなど不可能なほど大きな戦果を『ウンディーネ』は挙げることが出来た。
- たった2度の交戦で『ウンディーネ』は、実に3隻の補給船と2隻の護衛艦艇、10機以上の戦闘機、7隻のパブリク艇、5機のボールを葬り去った。これだけの戦果を、『ウンディーネ』は、ザク1機小破という損害だけで達成したのだ。そして、そのほとんどは、ゴドノフ小隊の戦果だった。そうなったのはゴドノフ小隊の技量が云々というよりは、サクラ小隊が、後衛に徹してくれたおかげにほかならなかった。
-
- 「少尉が、後衛に付いてくれるおかげで思い切った機動ができるというものだ」
- ゴドノフは、3度目の哨戒活動から帰還した後にサクラ少尉をみんなの前で絶賛したものだ。
- 「いえ、少尉の技量が優れているからだと思います」
- サクラ少尉が、ゴドノフに応えてそういったものだからますますゴドノフの機嫌は良くなった。ゴドノフの部下達も、自分の上官が持ち上げられて、また、戦果を挙げることもできたので気分が悪いわけがなかった。
- そして、連続した3度の哨戒任務を終えた『ウンディーネ』には、3日の休暇が与えられた。休暇といえば、聞こえは良いが、その実は『ウンディーネ』の機関のオーバーホールなために必要な日数だった。繊細な機関システムを持つムサイ級では、この機関のオーバーホールが、必須だった。そのサイクルは、任務にもよるが通常2回ないし4回の出撃に1回のサイクルで行われ、その間、乗員達には、休暇名目で上陸が許される。
- たとえどういう名目であろうともこの時ばかりはいつもの半減上陸とは違って、完全上陸となるため、乗員達にとっては良い骨休めになることだけは間違いなかった。
- ただ戦時下ということもあって、娯楽が充実しているジオン制圧下のフォンブラウンまで足を伸ばすことは出来ず、専らグラナダ内の施設で過ごさねばならないのが乗員達の不満ではあったけれど。
-
- その休暇も今夜限りという夜、サクラ少尉は、2人の部下と一緒にグラナダの士官用のラウンジで、過ごしていた。
- 「少尉、いいんですか?」
- ジョッキに入ったビールを遠慮がちに飲み干しながらリックマンは、さも面白くなさげにいった。面白くなさそうなのは、相棒のオルトマンも然りだった。
- その理由は、明確だった。『ウンディーネ』着任以降、後衛に徹したサクラ小隊の挙げた戦果は、ほんの僅かなものでしかなかったからだ。その戦果も、ゆうなればゴドノフ小隊のおこぼれを拾ったに過ぎない。
- 確かにそうなのだ。リックマンにもオルトマンにも後衛をやらなければゴドノフ小隊に負けない戦果を挙げる自信が十分にあるのだから。
- 『ウンディーネ』に来てから挙げた戦果といえば、ゴドノフ隊の討ち漏らした戦闘機を2機墜したに過ぎず、大物や骨のある相手は、全てゴドノフ隊に進呈している恰好だった。
- 確かにゴドノフ小隊のパイロットの腕前も捨てたものではない。恐らく一般的なザクのパイロットよりは優れているだろう。それでもなおかつ、リックマンに言わせれば戦闘の運び方がじれったいのである。さらに言えば、後衛を当てにしすぎる戦闘をしているようにも思えるのだ。
- 「いいに決まってるじゃない」
- サクラ少尉も、ぐいっと一飲みでジョッキを半分ほど空けてしまう。飲みっぷりはたっぷり3回りは大きな体格の曹長達にも全然ひけを取らない。既にテーブルの上には空になったジョッキがごろごろしている。空けたグラスの数は、心持ちサクラ少尉が多い。
- その数を数えながら少し前からおろおろしているのはオルトマンだ。リックマンも、少しは気にはしていたけれどオルトマン程、神経質になっているわけではない。
- 余りにもぴしゃりといわれてリックマンは、続ける言葉をなくしてしまった。どちらかというと話し下手なので余計だった。サクラ少尉は、パイロットの腕前も2人よりずっと上だったし、女性のツネとして口も良く回るのだ。
- 「しかし、少尉、もういいんじゃないですか?ゴドノフ少尉にはもう十分花を持たせたと思いますが?」
- オルトマンが、話し下手のリックマンに変わって話を続けた。オルトマンは、自分なりに、できるだけ丁寧な言葉を選んでいる。「そろそろ、われわれも腕前を披露してもいいんじゃないですかね?」
- リックマンに比べれば、オルトマンは弁が立つほうだ。もっとも、リックマンと比べればである。2人は、他の誰がどういおうと言葉より手が出てしまうタイプであることは間違いがない。
- 「チームとして上手くいってるんだからこれでいいのよ。誰も死んじゃいないのよぉ、それが一番だとは思わないことぉ?」
- そういうとサクラ少尉は、残りの半分を、飲み干した。それを見てリックマンが、新しいジョッキをオーダーする。ビール、別にビールでなくってもアルコール、を切らすのは良くないことの前兆だからだ。特に今日のように、ジョッキが次から次へと空いていく日は、そうするにこしたことがない。しかし、これ以上ジョッキが空いていくこともいいことではない。
- 「は、はぁ、まあそうですがね」
- オルトマンの顔から、わずかに血の気が引いていく。オルトマンは、サクラ少尉の言葉尻が変わったのに気が付いたのだ。思わず、リックマンの方へ視線を向けるが、リックマンの方は、まだ気が付いていない様子だった。冷や汗がつつーっと、背中を流れていくのを感じ、オルトマンの酔いは、急速に冷めていく。
- 「だったらぁ、いちいち文句を言わないの。分かった?それとも、あれ?気に入らないのかしらぁ?」
- オルトマンは、妙に楽しそうな笑顔を浮かべはじめたサクラ少尉に、背筋が寒くなった。笑ってはいるが、目は据わっている。こんなふうになったサクラ少尉をどうすれば部屋に戻すことができるかということを考えはじめた。骨の折れることには違いないが、やらねばならない仕事だった。これ以上グラスが空けば、ちょっとしたことで怪我人が出てしまう。
- リックマンもようやく事の重大さに気が付いたらしい。顔色が僅かに青ざめ、助けを求めるような視線を送ってきた。
-
- どうにか事態を収拾(まだ何も起きてはいなかったが)しようと考えはじめた矢先の2人の曹長達にとってそれは、最悪のタイミングだった。
- 食堂のドアが、開くと同時に『ウンディーネ』の整備班の面々が、何やらワイワイ騒ぎながら入ってきたのだ。もともとパイロットと整備班は仲がいいとは言い難いうえに、サクラ小隊は、ゴドノフ少尉や、艦長のスミス中佐が認めているとはいっても所詮他所者でしかなかった。おまけに、ザクの数が倍にもなったというのに整備班は、これっぽっちも増員されていない。もう一つおまけにほぼ連日の出撃によって整備班の仕事量は、勢い増えているのだ。だからといって、ザクの整備に手を抜くほど彼らは、アマチュアではなかったし、配属以来苦楽を共にしているゴドノフ少尉に不満をぶつけることもできない。だとすれば・・・。
- 「ほほぅ?戦果の1つも挙げられない姉ちゃんが、こんなところで油を売ってるとは、ジオンも平和になったもんだ」
- 自分たちが、ようやく仕事をなんとか済ませて1日の疲れを酒で癒そうとしたところに既に出来上がりつつあるサクラ少尉が、いたのが気に障ったのだろう、整備班のリーダー格のコワロフスキー軍曹が入ってくるなり嫌みたっぷりにいった。
- 他の乗員達と違って、機関科員とモビルスーツの整備班だけは、完全上陸とはいっても言葉通りにならないこともままあるのだ。
- 今回も、6機ものザクを整備しないといけないうえにザクが1機小破したせいで、整備班達はろくろく上陸も出来なかったのだ。
- もちろん階級的には、サクラ少尉の方がずっと上だったけれど、軍歴の長い軍曹にとってはサクラ少尉は、ションベン臭いガキでしかないのだ。
- 「なんだと?」
- それを聞いてリックマンが、顔色を変えて立ち上がった。それを見て整備班の連中も身構える。6対2、まあちょいと痛い目を見るだろうがやってやれない数ではないとリックマンは素早く計算した。しかし、同時にオルトマンも別の色に顔色を変えていた。
- 「面白い、やろうってのかい?ザクをとってこなくてもいいのかい?パイロットさんよぉ」
- さらに、嫌みを加えたコワロフスキーのその言葉を合図にしてまるで最初から決めていたかのように整備班の兵士達がぱっと横に広がる。かなりレクリエーション慣れしているのだろう。
- (こいつはちょいと厄介かも知れん)
- リックマンは、少しばかり気を引き締める。1対1ならこの中の誰にも負けない自信があったが、数を頼みに乱戦に持ち込まれると厄介なことになりそうだった。そうならないためには、先手必勝、まず言葉で威嚇して一気に頭の悪そうな班長を畳んで・・・。
- 「痛い目見ても・・・」
- リックマンは、それ以上言葉を続けることができなかった。リックマンの横手から誰かがすっと前に出たからだ。リックマン以上に喧嘩っ早いオルトマンが自分の1発目から始めようとしたのかと思ったが、その人物が自分の肩より低いのが分かって絶句してしまったのだ。
- 「姉ちゃん?それって誰に言ってるのかしら?」
- その声を聞いた瞬間リックマンも思わず首をすくめた。首をすくめたリックマンを背後においてサクラ少尉がさらに1歩前に進み出る。伸ばした髪は、いつの間にかヘアバンドで束ねられている。きっと目は、恐ろしく座っているに違いない。
- 「あんたしかいないんじゃないですかい?女少尉さんよ。それとも見た目まんまのガキって言ったほうが良かったかい?」
- 1歩前に進み出たサクラ少尉にほんの少し驚きながらコワロフスキーは、さらに挑発的にいった。リックマンとオルトマンは、とりあえず席を立ったもののおろおろしている。もちろん、サクラ少尉のことを知らないコワロフスキー軍曹は、そういったことには気が付かない。
- 「冷静なあたしでも、ゴリラに言われると意外と腹が立つものね」
- にっこり笑いながら言われて一瞬、コワロフスキーは、それがどういう意味なのか理解できなかった。
- それほどサクラ少尉の笑顔とその口から出た言葉は、1つにならなかった。
- 確かにコワロフスキーの見た目は、人間よりはゴリラに近いとはいえ本人がそれを認めているかどうかは別のことだった。言われたことの意味がわかった瞬間、コワロフスキーは、階級のことなど全く忘れてサクラ少尉に掴みかかった。
- 「この、ガキっ!!」
- 一ひねりにされる、誰もが、少なくともリックマンとオルトマン以外は、そう思った瞬間、サクラ少尉の体がくるりとコワロフスキーの体の陰で廻る。纏められた髪がサクラ少尉の体にまとうようにつられて廻った瞬間には、オルトマンやリックマンにもひけをとらない大男のコワロフスキーの体が、宙を舞っていた。
- (ああ、やっちまった・・・)
- サクラ少尉お得意のジュードーとかいうやつの技が決まった瞬間、リックマンは、心の中で諦めを呟いた。
- 月の重力とはいえ、それなりの体重を持つコワロフスキー軍曹の体は、ふわっと浮いて空を短く飛んだ。そのままいくつかのテーブルとイスを激しく飛び散らして床に叩き付けられたコワロフスキーが、短く呻いてそのままのびてしまったのを見せられて他の5人の整備班の兵士達が、一斉にサクラ少尉に襲いかかった。
- リックマンは、思わず両手で顔を覆ってしまい、オルトマンは、大げさに口を開けた。もし口が、回っていたら2人ともこう叫んでいたに違いない。
- 「お前ら、やめとけ!!怪我するぞっ!」と。
- 最初に突っ込んできた兵士を、ベテランの闘牛士が猛牛を避けるように華麗に躱し、同時に手刀を一閃させその勢いあまって倒れこみそうになる兵士の後頭部に叩きこむと、その兵士は、まともにあごから床に突っ込んでいく。その勢いのままその兵士もテーブルやイスの中に突っ込んでいき、突っ込んで行った先のテーブルで飲んでいた何人かの兵士がその巻き添えを食う。
- 派手にテーブルや椅子の散らばる音を背後に聞きながらサクラ少尉は、笑顔のままで脚を伸ばし、くるっと一回転して踵を次に突っ込んできた兵士のあごにまるで狙い澄ましたように叩き込む。2番目の兵士は、突っ込んできた勢いを強制的に横に反らされて多少大げさにも思える悲鳴をあげて関係のない兵士をさらに巻き込みながら吹っ飛んでいった。残った3人のうち2人が、右へ左へと投げ飛ばされ食堂のイスやテーブルにまともに顔や背中から突っ込んで、最後の一人が本人も気が付かないうちに背後をとられ首をきめられたのは、それはもうついでのことだった。
- 陽気なサクラ少尉の笑い声が、食堂内にこだまして、巻き添えを食った兵士や関係のない兵士までが、この突然始まったレクリエーションに参加するころには、リックマンやオルトマンも、好むと好まざるとにかかわらず参加せざるを得なくなっていた。
-
- 「まったく・・・」
- 哨戒行動に出撃するために、グラナダの艦隊基地から出港しつつあるウンディーネの艦橋でスミス中佐は、半ばあきれ、半ば驚きながら昨日の1件に関係した者たちを見回していた。
- 向かって右側には、パイロットの3人が、左側には整備班の6人が横一列に並んでいる。艦橋の端の方では、珍しくレクリエーションに参加しなかったゴドノフ少尉が、にやにやしている。
- 張本人以外にも今日の『ウンディーネ』の乗組員には、包帯や絆創膏をしているものが多い。昨日のレクリエーションをMPが止めるまでには、かなりの兵士が参加したことの証拠だった。
- 「軍曹、大事なパイロットを負傷させたらどうするつもりだったのです?」
- そういってスミス中佐は、対照的な2組を改めて見た。
- 恐縮しきっている2人の曹長は別にしてサクラ少尉は、澄ました顔で視線を逸らしている。こちらの方は、昨日までとほとんど変わりがない。アラン曹長が、右の頬に小さな絆創膏を貼っているのが昨日までと違うといえば違ったが、そんなことは些細なことでしかなかった。
- 反対に、整備班の方はといえば、軍曹とさらに2人が頭を大げさとも思えるような包帯でぐるぐるまきにされている。2人が、顔中に絆創膏を貼っていてそのうちの1人は、目の縁を青くしている。1人だけは、ちょっと見には何でもないように見えるけれど、よく見れば首筋に大きな湿布を貼っている。
- 「申し訳ありません」
- しゃべるのも辛そうに、顔をしかめながら軍曹は素直に謝る。荒くれ者の軍曹も、艦長に睨まれると小猫のように縮こまった。
- 「それに、少尉」
- スミス中佐は、整備班の兵士達をもう一度まじまじと見まわして、大げさにため息をついた。確かに、仕事に深刻な影響を与えはしないだろうけれど、見た目は、最高に悪い。まるで『ウンディーネ』が病院船であるのかと錯覚するぐらいだ。この6人以外にも報告を受けているだけで軽く10人を越す兵士が骨折とまではいかなくとも、顔を腫らしたり痣を作ったりして手当てを受けているのだ。もっとも、怪我をした全員が、報告の中に含まれているとはグレースも思ってはいない。
- 「もう少し手加減できなかったのですか?」
- このセリフを言う相手を間違っているのではないかと思いながらも、グレースは口にした。2人の曹長のどちらかでは?と思いたかったが、MP隊からの報告書ではそうではなかった。
- 「以降気をつけます、艦長」
- 「その、以降気をつけます、は、こういう騒ぎをもう2度と起こさない、というように受け取っておきます」
- 取りようによっては、どうとでもとれる返事を確かな約束にするためにスミス中佐は、念を押した。
- 「ハイ、艦長」
- 相変わらず、良い返事ではあったが、はじめて艦長室に迎えたときとはまったく別人のサクラ少尉がそこにはいた。
- 「下がってよし」
- いったい何処まで分かっているのか、サクラ少尉は、あっさりと返事をして、グレースを更に呆れさせた。もう少し何か、きつくいったほうが良いのだろうか?とも思ったが、何を言っても、のれんに腕押しといったところだろうと思い直し、下がらせることにした。
- サクラ少尉に率いられて出ていく曹長達は、多少ばつが悪そうに装っていたけれど、当の本人は、相変わらず涼しい顔をしている。
- 軍曹達はというと、体のあちこちが悲鳴を上げるのを我慢しながらいかにも痛々しそうに艦橋を後にしていく。
- 「やったな」
- 隅で事の成り行きをにやにやしながら見ていたゴドノフ少尉が、サクラ少尉にぎこちないウィンクとともに声を掛ける。それに対してサクラ少尉が、どう答えたのかはスミス中佐の方からは見えなかったけれどゴドノフ少尉が、にやりと笑った後に声を出して笑ったところからすると舌の一つでも出して見せたのに違いなかった。
- 見た目以上にサクラ少尉がタフで抜け目ないことで、やはりパイロット、それも指揮官という人種は決して見た目で判断してはいけないということを改めて思い知らされたスミス中佐だった。
- 張本人達が出ていってしまうと艦橋には、ゴドノフ少尉を除けば航行に必要な最小限の数になった。ひとしきり笑ったゴドノフ少尉をスミス中佐が睨み付けるとゴドノフ少尉も、肩を小さく竦めて艦橋を後にした。
-
- グレースが、キシリア少将付の高級将校に突然、直接呼び出されたのは、昨日の日付も変わろうとするころだった。
- 「ただちに、MP隊本部のハリス准将の司令官室に出頭せよ」
- ハリス准将からの呼び出しならまだしも見当がついたが、キシリア付の高級参謀からの呼び出しとなるとその理由がまったく分からなかった。しかし、何故?と聞くよりも早く、ただちに!と返事を返し、グレースは、ざっと身を整えるとハリス准将の部屋へと急いだ。
- 出頭したグレースは、部屋に入った瞬間、あっと叫ぶところだった。普段はMPの司令官が座っているのであろう執務机に鷹揚に座ったキシリア少将その人が、グレースを待っていたからだ。年齢的には、グレースよりもずっと若いはずだったが醸し出す雰囲気は、圧倒的な威圧感で表されている。グレースも、その威圧感に気圧されそうになる。
- 他には、グレースが呼び出される原因になったであろう『ウンディーネ』の乗組員達、サクラ少尉とその部下、痛そうに呻いている整備班のコワロフスキー軍曹とその部下達。さらには、憮然とした顔つきで立っているMPのうちの何人かも、顔に痣を作っている。
- おおかた軍曹とオルトマン、リックマンあたりがMPを巻き込んでレクリエーションを派手にやったに違いないとスミス中佐は、想像したが、何故この場にキシリア少将がいるのかまったく見当がつかなかった。あるいは、キシリア少将の目の前でレクリエーションをやらかしたのか?とも思ったが、そこまで酔狂な軍人は、少なくともこのグラナダにはいないはずだった。
- 「中佐の部下は、全く頼もしい」
- どんな叱責をされるのかと身も縮む思いのグレースに向けられたのは、キシリア少将の笑味だった。「しかし、多少やり過ぎだとも言えるな、今日は大目に見ておくようにハリス准将に言い含めておいたが、2度と同じことのないようにな」
- それだけを言うと特別にあつらえられた紫の軍服と、白のマントに包まれたキシリア少将は、副官を従えて部屋を後にした。
- その後に、今度は、ハリス准将自らが事の顛末、ここにいる怪我人のほとんどが、サクラ少尉によって作り出されたことを聞かされたのだ。
- それはそれで驚きだったけれど、そんなことよりもずっとグレースには、何故一介の少尉の起こしたレクリエーションにキシリアが、口を挟んだのか?そのほうがずっと驚きだった。ただ、その場は、それだけで済んだことにただ安堵したのだ。
- けれど、改めて思い返すと違和感は大きかった。
- たとえキシリア少将のお膝元であるグラナダとはいえ、レクリエーションは、そう珍しいことではない。どちらかといえば、日常事ですらある。昨日の1件も、内容を聞いたかぎりではグレースに言わせれば、どうということのないただのレクリエーションでしかなかった。なのに、グレースをわざわざ呼びだし、その席にキシリア少将がいたというのは、どう考えても違和感があった。
- その訳が、新任のサクラ少尉にあることも薄々分かってはいたが、だからといってサクラ少尉1人をわざわざ呼びだして問いただす程グレースは、聡明さに欠けてはいなかった。
- それに、たとえそうしたとしてもあの新任の少尉は、けろりと「分かりません」と、いってのけるのが目に見えてもいた。
- 「艦長、速度指示を」
- 副官がいぶかしげに指示を求めてはじめてグレースは、自分が物思いにふけっていたことに気が付いた。
- 「速力第3戦速、航路維持、グラナダの視界エリアまで現状を維持する!」
- 「アイ、サー!速力第3戦速!」
- 操舵手が、威勢良く復唱し『ウンディーネ』は、心地よい加速を始めた。
- 「艦長、お気になさらずに・・・」
- 「分かっているわ、ペイサー」
- 小声で言う副官にそっけなく答え、グレースは、自分の職務に集中することにした。軍で生きていくには、全てを知らないほうが良いこともあるのだと、自身に言い聞かせながら。
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