小狼の見る夢は、このところ一週間同じものが続いている。
さくらと違い、その夢はエレベーターの中で起こり、さくらが暗闇に吸い込まれていく場面ば
かりが繰り返される。小狼が自分の気持ちに気を取られ、一瞬判断が遅れたために、さくらの
手を摑むことができなかったあの光景・・・。
それが、繰り返し繰り返し、目の前に突きつけられる。
自分が不甲斐なかった故に、大切な、この世で一番かけがえのない人をみすみす失ってしま
うことへの後悔と自責の念が、小狼を金縛りにする。そして、この夢の中では、さくらはいつま
でたっても現れてこない。悲しみに押しつぶされそうになりながら、その人の名を口にすると、
決まったように目が覚めた。
まだ明けきらぬ空を見上げながら、小狼は東の国にいる一人の少女のことを想った。
その声、その笑顔、その眼差し。懐かしくて、いとおしい。
けれど、今はまだ、手の届かないところにある・・・。
夏休みに入ったとき日本を訪れたのは、苺鈴がどうしても行きたいと言ったからだ。母上までが
そうしろと言ったのには、苺鈴同様かなり驚いた。後から聞けば占いに出ていたからだと言う。
あの事件があってから、毎朝自分も彼女のことも占っている。さすがに、今はさくらの周りに何か
起こる気配はない。ただ、毎日自分が見る夢は気にかかる。
こんなに気にかかってはいても、知世とメールのやり取りをしている苺鈴に、小狼はさくらの様子を
聞くことができない。照れくさく恥ずかしいこともあるし、苺鈴の想いを受け止めてやれなかったこと
も頭の隅にまだ残っている。
小さいときから『小狼の婚約者』を名乗っていた苺鈴。その気持ちは本当のことだったが、小狼は
彼女ではなく、さくらを選んだ。
今はもう、苺鈴は小狼に対して依然と変わらない風ではあるけれど、まるっきり同じでもない。そ
んな彼女の気持ちを乱すようなこともしたくないと考えていた。
夏。苺鈴はなでしこ祭での劇を小狼に見せて、さくらから答えを引き出そうと考えていたようだ。
小狼自身は、さくらに自分の気持ちを言葉にして伝えられただけで、満足だったのだが。たとえ、
さくらからどのような返事が来ようとも、潔く受け止めるつもりでいたから。
結局は『無』のカードの出現により、困難を乗り越えてお互いがお互いの一番大切な人であると
解りあえて、香港へ帰ってきたのだった。
思い出すと思わず顔が熱くなる。小狼は雑念を払うように呼吸を整え朝の稽古に向かった。
「ねえ、偉。小狼の様子は変わりない?」
苺鈴は、帰りがけ、小狼の家を訪れた。学校ではクラスが違うし、もう、今までのようには小狼に
接しないと決めたので、こっそりと執事の偉に様子を訊ねる。
「なにかございましたか?苺鈴さま」
「う〜ん、ちょっとね。本当に何もない?」
偉はちょっとの間考える風に空を見上げた。
「少々眠りが浅いようですが、けれども、日課もきちんとこなされていらっしゃいますよ?」
苺鈴はため息をついた。この偉が簡単になんでも話すはずはないのだった。こと小狼のことならば。
でも・・・。
「・・・そう。でも、もし変わったことがあったら教えて?もしかしたら、木之本さんのことかもしれないから」
「かしこまりました。さくらさんが関係することでしたら、必ずお教えいたします」
「頼んだわね」
そう言うと、片手をさっと挙げ、苺鈴は背を向けた。
偉は苺鈴の去り行く姿に深々とお辞儀した。自ら小狼の婚約者と名乗り、頻繁に出入りした頃に
比べ、今の彼女は格段に大人びてきた。それが小狼への失恋のためであっても、変わりなく気さくに
顔を出し、相変わらず何気なく小狼の世話を買って出る。女系家族に囲まれて、頑ななだった小狼を
普通の子供の世界へ導いたのは苺鈴の功績だった。
「苺鈴さまは、本当にお優しい方でございます」
偉は、一人微笑み呟いた。
入れ違いに小狼が帰宅した。建物の前に出ていた偉を見て、首を傾げる。
「偉、誰か来ていたのか?」
「あ、小狼さま。お帰りなさいませ。今、苺鈴さまが、お立ち寄りになられたところでございます」
「苺鈴が?」
小狼は学校でのことを思い浮かべたのだろう、不思議そうな目を向けている。
「叔母上さまからの託けだそうです。用事が済むと、すぐにお帰りに・・・」
「そうか」
そう答えた後、彼は自分自身の物思いに戻ったようだった。普通に振舞って見えるが、長年彼を見続
けていた偉には、少し疲れたように思えた。苺鈴が気にするのも無理はない。
「学校の課題ですか?あまり根をお詰めになりませんように。今日の稽古は休まれてもよろしいのですよ?」
ふと顔を上げて小狼は偉を見詰める。
勿論、夢の話は偉にも言っていない。内容も毎晩見ていることも。
けれど、この様子ではかなり心配をかけているようだと思った。
「稽古は休まない。気分転換になるからな」
「左様でございますね。では、お茶をお部屋にお持ちしましょう」
偉は、小狼が気遣っていることを感じながら、知らぬ振りを決めた。
先に立って館の中に入る偉の背中を追いかけながら、小狼は、また、夢の謎について考えるのだった。
苺鈴は自室でキーボードを打つ手を止めた。
「木之本さんになにかあったのかな?」
パソコンの画面には、知世からの返事が届いていた。
【偉にも、ちょっと聞いてみたけど、知らないみたいなの。また、何かわかったらメールするわね】
返信のキーを叩き、背伸びをする。
「本当に・・・。二人とも私がしっかりしないとなんだからぁ。ほややんって伝染するのかも?」
小さく呟き、くすりと笑う。
◇
夕食の後、さくらはケルベロスと長い間話し合い、やはり『戻』のカードを使うことに決めた。
さくらが早いほうがいいというのと、父や兄に心配をかけずに済むから、ということで、決行する日は、
明日の夕方、ということになった。
「わいは行くからな、さくら。止めても無駄やで」
いつになく真剣な表情でケルベロスが言った。あの事件からこっち、さくらはずっとカードを使っていない。
久しぶりの魔法が扱いにくい『戻』というのは、全く気が進まないのだが、今のさくらには、言っても無駄だ
ろう。本当に切羽詰っているから、止めようがない。ケルベロスにしてみれば、どうにかできるものなら、
代わってやりたいくらいなのだ。
『小僧め、何やっとるんじゃ・・・』
日ごろは『小僧』呼ばわりしていても、さくらにとって一番大切で、一番支えになる人物だということは、
ケルベロスにも痛いほど解っている。どんなに離れていても、この二人は支えあえる筈なのだが・・・。
「わかったよ、ケロちゃん。一緒に行こう」
決めたことで気持ちが落ち着いたのか、さくらは静かに答えた。
結局、その夜も夢を見、うなされて起きてしまった。今夜は机の中に眠っているのでケルベロスは起き
てこない。
いつもは、また、眠りにつくのだが、もう、眠れそうになく、さくらは、ベッドの中で朝を迎えた。
「カードさんたち、今日は私に力を貸してね?」
さくらはカードたちとくまを抱え、祈った。
朝のテーブルでは、藤隆と桃矢が顔を見合わせ、気のない様子で朝食を食べているさくらを心配して
いた。二人とも口には出さないが、このところ沈んだままのさくらは、傍から見ても痛々しいほどだ。無理
にでも笑顔を作り、父と兄に心配をかけまいとしている。忙しい二人のことを思いやっての行為だけに、
強くとがめることもできないでいた。
「さくらさん?」
藤隆が思い余ったように口を開いた。
「今夜は一人でお留守番ですが、なるべく早く明日は帰ってきますからね」
「うん、今日はクラブもないし、早く帰ってきて戸締りしっかりしておくよ」
「おやつにケーキを焼いておきましたから、よかったら知世さんと放課後食べてください」
「ありがとう、おとうさん」
「無理するなよ、寂しかったら、夜、雪に来てもらおうか?」
珍しく桃矢も素直に言った。
「え?いいよ。雪兎さんだって、忙しいんでしょ?実習とか試験とかで」
「今週は空きなんだと。連絡しておくから。じゃ、お先」
言うことだけ言って、そそくさと玄関へ向かう。
「さくらさん、折角だからそうしてもらってください。僕も安心ですから」
さくらは、優しい父の顔を見上げた。父の笑顔をも、いつもより寂しそうに見える。
やはり心配かけているのだと思うと、さくらは少し辛かった。立ち上がり、そっと父の腕に寄り添う。
「・・・じゃあ、そうするね。心配かけてごめんなさい・・・」
「いいんですよ、心配したがるのが親という生き物なんですから。さあ、いってらっしゃい。良い一日を過ご
してくださいね」
「ありがとう、おとうさん」
さくらは鞄を持ち上げ、藤隆ににっこりと微笑んだ。
「いってまいります!」 さくらが去った後、藤隆はテーブルの上の撫子の写真に呟く。
「さくらさんも、だんだん大人になっていくんですね。僕がいない間のこと、宜しくお願いしますね、撫子さん」
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