その朝の木之本家では。
「桃矢くん、さくらさんのこと、宜しくお願いしますね。いって参ります」
 藤隆は、慌しく鞄を抱え、玄関を出て行った。昨夜から熱を出したさくらの看病をしていて、今朝はいつもの時間より早く出勤することを忘れていたのだ。
 今日から2日間の日程で大学入試が始まる。藤隆は面接担当の上、今回は取りまとめ役だった。依然熱がなかなか下がらないさくらに後ろ髪を引かれつつ、職場へ向かった。
 桃矢はすでに修士論文を書き上げてしまった。土曜日はゼミに顔を出すこともあれば、パソコンで自分のデータのまとめなどを自宅でするようにしていたので、さくらの看病にはいささかも支障はなかった。

 桃矢は、そんな父の後姿を見送ると、キッチンへ戻り、さくらのためにおかゆの準備をする。
 さくらの熱は39度のあたりを行ったり来たりしており、今朝になってやっと38度半ばになった。
 藤隆が声をかけたときは、うっすらと目をあけたが、水を一口飲むと、薬を飲ませる暇もなくそのまま眠りに落ちていってしまった。
「風邪には安静と栄養ですから。気分が良くなったら、何かおいしいもの食べさせてくださいね、桃矢くん」
 熱があっても、さくら自身は昏々と眠っているだけで、酷く苦しそうには見えなかった。少し夜遅くまで起きていた日が続いたから、過労と雪で濡れたための熱だと二人は考えていた。

 眠り続けていたさくらは、11時近くなって、ぽっかりと目をあけた。喉が渇いて仕方なかったので、丁度部屋を覗いた桃矢に、水が欲しいと頼んだ。桃矢は『おぅ』という軽い返事をして、下へ降りていった。
 一晩中様々な夢の中にいたようだった。目を開けば記憶に残らないものばかりだが、身体の奥から疲れが波のように襲ってくる。
 さくらは気だるい身体をやっとの思いでベッドの上に起こした。汗をかいたパジャマが気持ち悪いのでのろのろと着替え、もう一度布団にもぐり込む。
 そうこうするうちに、桃矢は少量のおかゆと薬を持って、戻ってきた。
 さくらは桃矢が重ねた枕とクッションに寄りかかるようにして起きる。小さなテーブルをベッドに載せて、おかゆとほうじ茶がスプーンとともに並べられた。
 冷たい水が食欲を思い出させ、さくらはなんとかおかゆを数口食べた。仕上げに、薬を水で流し込む。
「ほら、これ。熱いぞ」
 苦い薬の後、桃矢がマグカップを差し出した。
 さくらは手渡されたマグカップを両手で抱えた。中味はほのかにクリーム色をして、甘い湯気が立っている。その香りが記憶の琴線に触れたが、何も思い出せなかった。
「あ・・・。え〜と・・・これ?」
 いつもなら大喜びするさくらなのに、今は不安そうな目で自分を見上げている。
「はちみつミルク。おまえの風邪の定番だろうが」
「そうだったっけ。いただきま〜す」
 照れた笑いを浮かべ、さくらはカップの中身を口に運ぶ。熱さのため吹き冷ましながら飲む姿は、小学生の時と変わらない。
 けれども、桃矢はさくらがいつもと違うことに気がついた。第一、普段ならカップを見ただけで中味が解るのに、今日は全然嬉しそうに見えない。あのさくらが好物を忘れるとも思えないが、いつにもましてぼーっとしている。
「おにいちゃん、これ、とってもおいしいね」
 さくらは満足した笑みを浮かべ、自分の様子を訝しげに見ている桃矢に、声をかけた。
「まあな。かあさんの直伝だからな」
「直伝・・・??」
 さくらの笑顔はあどけないほどで、しかし、その表情は薄っぺらな印象を与えた。桃矢はさくらの澄み切った瞳がなんだか哀しかった。

 桃矢はカップと引き換えに体温計を渡す。じっと見ているのが気になるのか、さくらは首をかしげている。
「おにいちゃん?何か言いたいことあるの?」
「あ?ああ。高校生にもなって、色気のないパジャマだな、と、思って」
「おにぃ〜ちゃ〜ん!!」
 枕が飛んできた。あやうく両手に抱えたテーブルに当たりそうになる。
「ま、そんなに元気があるなら、熱も下がったんだろう」
 むくれた顔はいつものさくらだった。
 ほどなく電子音がなり、差し出された体温計は平熱の少し上の体温を示していた。
「あと一息だな。大人しく寝てろ、かいじゅう」
 【怪獣】という言葉は荒いが、心から桃矢が心配していたことがわかる。
「もう少し休むね。おにいちゃん、ありがと」
 さくらは微笑んで布団をかぶると、軽いあくびをして眠りの中へ入っていった。
 桃矢はたたんだテーブルとお盆を片手に持ち、ドアの前で、ふと、振り返った。

 さくらが普段どおりではないからか、部屋もいつもと違って見えることに気がついた。それに、例のオレンジ色したぬいぐるみが今日は部屋から消えている。いつもなら大概さくらのベッドの上で正体がばれているにもかかわらず懸命にぬいぐるみの振りをしているのに(それが面白くてつい桃矢もからかっているのだが)。
 今回ばかりは傍にいないとは、何か深刻なことが起ころうとしているのか?
「また、あいつの仕業か?」
 桃矢は苦虫をつぶした表情を浮かべ、静かにドアを閉めた。

 この味知っている・・・
 あったかくて、懐かしい甘いミルクの味
 それなのに、どうして、忘れているの?
 私、大切なものをどこかに置き忘れてしまったみたい・・・
 見つかる?
 見つけなくちゃ
 でも・・・
 どうしたら、いいの?
 私は、見つけられないよ
 鳶色の瞳のあなたなら、見つけてくれそう・・・
 あなたは
 だぁれ?

 目が覚めると頬が濡れていた。言い知れぬ哀しみが胸を塞いでさくらを不安にさせた。その哀しみがどこから来たのかも、さくらには、もうわからないのに・・・。

 

 

 冬の陽が部屋に長く尾を引いてきた。障子に庭の木立の影がくっきりと浮かんでいる。

 
「さくらはなぜ話せなかったんだろう・・・」
 小狼はさくらの気持ちを想う。何か理由があって言わなかったのかと。自分にはさくらの気持ちを受け止めてやれない、そう思われる要素があったのか。
「小僧なんかに話すには、何ぞ差しさわりがある思ったんやろ」
 食べるだけ食べて、知世の膝でうとうとしかけたケルベロスが答えた。
「差しさわりって?」
「どうせ、くだらん『約束』とか、なんとかやないのか?」
 ケルベロスは膝の上で半目を開け、小僧に説明するのは自分の役目ではない、と、いった顔だ。
「くだらんとはなんだ!」
 小狼の声が思わず大きくなる。さくらと交わした約束は、必ず守ると誓っている。
「小僧は破らんかて、さくらが守らんかったら、約束したことにならへんのやないか?」
「え?」
 思ってもいなかったことをケルベロスに指摘され、小狼は戸惑った。
「さくら、困っとったでぇ、小狼くんが怒ったらどうしよ、とか、なんとか。小僧との約束なんて破ったれ、ただのやきもちや〜、言うたったのになぁ・・・」
「ケロちゃん、それは言いすぎですわ。真面目な李くんに」
 流石に知世が間に入った。ケルベロスも口が過ぎているのは承知なのだろう、頭をほんの少し小狼に下げてみせる。
「まあまあ・・・。だってほんまのことやし・・・」
 知世にたしなめられ、ケルベロスは小声で返事をする。問題の人にはその話は届いていないようだった。
 小狼は思い出していた。そして、なんとなくその『約束』について語り始めた。
「あれは・・・」

 中学のときの話だった。さくらが、小狼に後輩とデートするように頼み込んできたのだった。『卒業を前に憧れの先輩と、どうしても一緒にいたい』と、言われたらしい。
 小狼は気乗りはしなかったが、さくらの熱心さに押し切られる形になって半日その子に付き合ったのだった。
 けれども、その日は以前からさくらが小狼と映画に行くのをとても楽しみにしていた日で、それなのに、結局自分のことを後回しにして後輩に譲ったことが小狼には堪らなかったのだ。
「私はいつだって小狼くんと一緒に居られるから・・・」
 さくらは微笑んでそう言い、我慢したことなどすぐに忘れてしまって・・・。
 小狼はその時はさくらがいいと言うならと思ったのだが、後から振り返えると、それでよかったのか、疑問が残った。
 ・・・それでさくらの心は悲しくないのだろうか?自分が楽しみにしていたことを人のために譲り、相手は喜んだだろう。そのことを心から喜べるさくらではあったし、疑いもないけれど。でも、知らないうちにさくらの心が傷ついているのだとしたら・・・
 それは哀し過ぎると小狼は思った。香港から帰ってきたのはさくらを守るためだったのに、自分のせいで悲しい思いをさせるのは、離れていたときで十分だった。
 それからは、誰かとデートというのは『小狼にはさくらという相手がいる以上、そういうことは嫌いだから』という理由で断ることにしたのだった。
 
 以前、香港と日本とに離れていたときよりは、はるかに一緒にいる時間はできた。それでも、学年が上がるにつれて、お互いの部活動や勉学など、仲間としては同じ時を過ごしても、まるまる二人っきりの時間というのは、考えていたより少なかった。
 だからこそ、二人になれる時間を小狼は大切にしたかった。仲間との時間も心躍る楽しい時間だが、離れていた分を少しでも埋め合わせがしたい、という思いもあった。
 実際何度かそんなデート話をさくらに持ちかけてきた人もいた。
 ―小狼ではなく、さくらに、というのも腹が立つ話で―
 ことごとく知世や山崎たちが情報を摑み、さくらが悩む前に未然に阻止してきた。今回ばかりはタイミングが悪く―山崎たちが問題を抱えていたため―結局さくら一人が悩んでしまう結果になったのだが。

 昨日のさくらは、日本を離れる彼女に、友枝のおいしいケーキ屋さんを案内するということだった・・・。
 用事ができてしまったから、代わりを小狼に頼むと言ったのだ。
 確かに、普段のさくらと違う感じはしたが、小狼も山崎のことを聞かれたくなかったから、深く考えずに(約束など思い出しもしないで)つい、引き受けてしまったのだ。

 ・・・山崎は小狼にも『秘密なんだ』とかで、一向に噂の年上の美人のことも千春のことも話そうとしなかった。
 二人きりになったら友達思いのさくらのことだから、きっと山崎と千春の話になるに違いなかった。さくらがそのことで少し元気がなかったのは知っていたし、だからと言って、小狼も山崎から何も聞かせてもらっていない・・・

 無意識にさくらを避けていたかもしれない自分を省みると、とても今回のことは怒るわけにいかなかった。

「俺は怒ったりしない・・・」
 もう一度小さく呟く。
「それなら、尚更早くさくらちゃんに伝えなくちゃね」
 すでに仮の姿に戻った雪兎が小狼の顔をにっこりと覗き込んだ。
「あ、はい・・・」
 小狼は未だにこの笑顔に内心照れてしまう。頷きながら小狼は、雪兎がその微笑に魔法を持っていると思うのだった。どんな人の警戒心もたちどころに紐解いて、優しい気分にさせてしまう。さくらとは別の微笑み。それとも、似ている?

 障子の影は夕焼けに染まり始めて赤みを帯びてきている。風が出てきたのか、木々が揺れ葉のこすれる音が部屋の中にざわざわと響いてきた。
「まあ、ええけどな。さくらも今が精神的に一番不安定やから、魔力にばらつきがあってなぁ・・・」
 ケルベロスが大あくびをして、気楽そうに話し続けた。実際はこれからが肝心な点であり、今日の集まりの目的でもある。
「ほんまに面倒やな、人間ちゅうもんは。一足飛びに大人になれれば、こないなことも起こらんのやけど」
「この時期といいますと・・・いわゆる思春期のことですわね?」
 知世が納得したように頷いている。
「そうや。奥手のさくらも大人になり始めたちゅうことなんや。が、さくらの魔力はこの時期不安定でな。記憶をなくしたことかて、爆発的な力が瞬時に働いたからや。今までだったら、なんぼなんでもそんなことは起こらんやろ」
「爆発的な力・・・」
 小狼はあのときのことを思い起こす。
 さくらは何か言っていた。何か言っていた筈だと思うのだが、声は聞こえなかった。何か頑なな印象を受け、誰をも寄せ付けまいとしていたようだった。
「どうして、俺の顔を見なかったんだろう・・・」
「さくらちゃん、あのとき李くんが傍にいるのは知っていらっしゃったんでしょう?」
 知世はさくらに変化が起きたときの話だと思い、訊いてみる。
「ああ、たぶん。声をかけたけれど返事はなかった。小さく縮こまっていたんだ」
「君がさくらちゃんがわざとそこにいたと、誤解したと思ったのかな?」
 雪兎もそのときのさくらの様子が知りたくて訊ねた。思えば、その場面のことが話題に出るのは今が初めてだった。
「俺、そんなこと考えてません。さくらは大道寺と一緒だとばかり思っていたからびっくりして・・・」
 最初こそ大きな声だったが、残りは段々と低くなった。
「盗み聞きされたとは考えなかった。さくらはそんなことするわけがないから」
「怯えていたようではなかったのですか?」
 知世がそのときのさくらの気持ちを確かめようと、再び問い掛けた。
「・・・。怯えていたのかもしれない。自分の身体をしっかりつかんで、本当に小さくなっていたんだ」
 その後は風に遮られ、気がついたときは記憶の無いさくらがいたのだ。

「どうでも、ええけどな・・・。終わってしもたことは仕方ない。余韻に浸る暇があったら、はよう予定を立てんかい?三日のうち、今日はもう終いなんやで?」
 話を聞いていたケルベロスは、流石にいらいらした調子で続ける。
「さくらが『さくらカード』のことやわいらのこと忘れてしもうたら、もう、誰も止められないんや」
「わかってるよ。でも、きっとさくらちゃんの選んだ彼なら、必ず彼女の心を取り戻してくれると思っているんだ」
「ええ」
 二人の視線の先には、照れて居た溜まれずに立ち上がる小狼の姿だった。
「そろそろお暇します」
「まあ、待ってね、これから僕、さくらちゃん家に出かけるから一緒に出よう」
「とことん、甘いな、小僧に。あいつ一人に任すんは・・・」
「それなら、ケロちゃんもご一緒されては?」
 雪兎も知世も、最初からわかりきっていたというように、ケルベロスに微笑んだ。
「しゃぁない・・・その代わり・・・」
「明日、さくらちゃんとはチョコレートを作る予定でしたの。ですから、お礼のお菓子はご用意しますし・・・。
 よろしければ、私の家でカードを使って戴いては如何でしょう?」
 雪兎が良い考えだ、と、大きく頷いた。

「メイズの中から見つけるんやったら、かなり広い空間が欲しいで」
 お菓子という単語に、既に乗り気のケルベロスである。
「裏庭も中庭もありますし・・・。メイドさんたちには近寄らないように申しておきますから」
「そうやな・・・。さくらに何かあっても近くなら安心やし。知世がついていてくれるわけやから」
 どうにか話は決まった。

 小狼も知世も雪兎について家を出る。
 すでに日も沈み、今日の最後の煌きがかすかに西の空に名残を見せている。雲ひとつ無い西の空に細い月がかかっている。雪兎の家の裏手は竹林が既に暗い陰を落としていた。

 三人は、雪兎を先頭に歩き始めた。

 ケルベロスはお土産に持たされた芋羊羹を握り締め、幸せそうに雪兎のコートのフードに収まっていた。
 小狼は見るとも無しにその光景が目に入る。ケルベロスのような能天気さが、少しうらめしい。気持ちの切り替えの早さも。
「あいつは・・・一人で抱えこんじゃいけないんだ・・・」
「うふふ、君は本当にさくらちゃんのことを大切に想っているんだね」
 雪兎がそれは嬉しそうに言ったので、独り言を聞かれた小狼は真っ赤になった。
「・・・いや、それは。・・・だから、その・・・」
「さくらちゃんを大切に想う人たちがたくさんいることを、知らなさ過ぎるとお思いなのでしょう?」
 しどろもどろの小狼に、そう、知世が助け舟を出す。
「そう言いたかったんだ。でも、さくらは知っている筈なのに・・・」
 知ってはいても、自分以外の人々に優しさを惜しみなく差し出すのがさくらだった。そんなさくらだからこそ、守りたい・悲しませたくないと、強く願わずにはいられないのだ。
「そうですわね、さくらちゃんは自覚されていますわ。それなのに、一人で抱え込んでしまうのは・・・生来の優しい性格もありますし、少し自分の内側に意識が集中しているせいかも」
「え?」
 小狼は知世の方を見た。
「奥手のさくらちゃんもそろそろ思春期という時期に入って、今までと同じではいられないとお感じなのでしょう」
 いつもさくらのことを見守り続けている知世らしい言葉だった。
「今のさくらちゃんは、大人になるために、生まれ変わる時期に来ているんだと思うよ。だから、自分の中に内なる目と外からの目を抱えて、戸惑っているんじゃないかな?」
 一行の道々の話題は、どうしてもさくらのことが中心になる。
 雪兎もさくらの動揺する気持ちを察しているみたいである。
「誰だって思春期には自分探しの旅をしているようなものだよ。今の自分と理想に思う自分と、そして周りから見られている自分との狭間に立って、あちこちさまよい歩いているんだ」
 雪兎はかみ締めるように言葉を紡いだ。それはその場にいる小狼や知世にも共通なことで―二人は普通の高校生に比べれば、遥かに大人びた考えを持っている―さくらの数歩先を歩いているだけであると言われている様だった。
「僕だって、まだ、探索の途中だけどね」

「李くんは、既にいろいろな人間関係をご存知ですから・・・。人には善の面も悪の面もあるとご存知でしょう?」
「そうだね、君は外から見てわかる以上に大人なところがあるから」
 知世と雪兎に面と向かって言われては、返す言葉も無い。
「でも、さくらちゃんは今まで純真無垢で、本当に稀有な存在でした」
 知世もそれとなく小狼がさくらに惹かれたわけを指摘する。
「そのさくらちゃんも、人には光と影の部分があることを気がつかれたのでしょう」
「今後、その光と影をどう自分の中で統合するかが鍵になるんだろうね」
 雪兎が小狼の方に視線を送りながら微笑んだ。

「・・・さくらなら。さくらならきっと大人になっても本質は変わらない。あのままだ」
「李くんは・・・。さくらちゃんが世の中の裏をお知りになってもさくらちゃんに変わりが無い、と、おっしゃりたいのですか?」
「・・・そうだ」
 小狼が素直に頷くのを見て、知世がどれほど安心したか、彼にはわからないだろう。無意識のうちでも、さくらを丸ごと受け入れるつもりでいることが解るから。そして、それこそが二人のこの先のために必要なことだから。
「君にとっては、【さくらちゃん】という存在そのものが大切なのかな?」
「え?・・・・え、まあ」
 あまりに雪兎がストレートに表現したので、小狼は虚をつかれた形になった。
「さくらちゃんがお選びになった方ですもの」
「そうだね」
 知世と雪兎が不思議な微笑を浮かべて自分を見るので、小狼は思わず一人で先立って早足になってしまった。



 丁度さくらの家に到着したところだった。
「知世ちゃんは寄って行くんでしょ?」
「はい。少しだけ様子を・・・。李くんは?」
「おれは・・・いい。このまま帰る」
「では、後ほどお電話差し上げますわ。明日の予定もありますし」
 雪兎と知世が木之本家の玄関に吸い込まれるのを見届けて、小狼は、二階の窓を眺めた。
 あの窓の向こうにさくらはいる。今ごろは自分の名前すら覚えていないかもしれないさくらが。

 歩き始めた小狼は勢いよく背後から襟首をつかまれ、引き戻された。
「なにを!」
「なにを、じゃない!おまえ、しっかりしないと、さくらを返して貰うぞ!」
 桃矢が凄んだ声で言った。雪兎たちが止めるのも聞かず、入れ違いに外へ飛び出してきたのだ。
「あんなさくらのままにしていたら、おまえ・・・」
「あのままにはしない!」
 小狼は桃矢の腕を振り解き、相手を睨みつけた。しばし両者の視線が激しくぶつかったが、ついと桃矢は視線を外した。本当に小狼がさくらを大切に思っていることは百も承知なのだが、今日のさくらを見せられては、何か言わなくては気が収まらない。
「あれじゃ、さくらじゃない・・・」
 ぽそりと言葉を吐き捨て、桃矢は踵を返した。そして、そのまま後ろを見ずに家の中に入っていった。
 桃矢の台詞が耳に痛かった。

 その夜、電話のベルが部屋に響いた。
「・・・はい」
『こんばんは、大道寺です。李くん、さくらちゃんは熱が下がって元気になられていましたわ』
「・・・よかった」
 思ったとおり知世からの電話だった。少しの間、訪れたときのさくらの様子を話してくれた。
『明日は10時に集合ですの。さくらちゃんは少し遅れて到着されると思いますから』
 言外に早めに来て欲しいことが伺える。
「ああ、わかった」
『それから・・・・。
 李くん。お節介かもしれませんが、明日のためにも今夜はゆっくりお休みになってくださいね。
 ケロちゃんは一筋縄ではいかないだろうとおっしゃっていましたから。
 寝不足のままでは、付き合えないそうですわ』
「あっ・・・」
『解っていらっしゃいますわね?では、ごめんくださいませ』

 小狼は知世にすっかり見抜かれていたことを知った。確かに今日のように寝不足の呆けたままでは、明日は大変だろう。さくらは年齢が上がるとともに魔力も強くなっている。それは小狼も同じだった。ただ、今のさくらは精神的に波があって、魔力の強弱が激しい時期だという話だ。だから、実際対峙するまでは小狼にとってもどの程度手ごわい存在になるのかは定かではなかった。
「俺まで心配かけてはな・・・」
 小狼は気持ちを切り替え、シャワーを浴びると早々にベッドに入ることにした。
 今日一日、さくらに会わなかったことが、かえって事実を受け入れやすかった。今の彼はさくらにとっての異邦人であることは変わらない。明日は自分のことは何も覚えていないだろう。それは哀しく、いささかの苦悩も感じないわけではなかったが、昨日よりは眠れそうだった。
 すでに、一昼夜以上さくらのことを想い悩んで眠れず、それでも、学校では普段通りに振舞っていたのだから。
 小狼は横たわって天井を見上げ、ほんの少し明日のことを考えているうちに、浅い眠りに落ちていった。

 

一面咲き乱れる花・花・花・・・
 その中に泣いている少女の姿があった

 あなたは・・・だぁれ?
 俺は・・・小狼
 ・・・泣いているか?
 私は・・・さくら
 迷子になって困っているの
 嫌われても会いたい人がいるから
 帰りたいのに・・・

 花びらが風に舞い、霞んだ空に消えていった・・・

 

 あまり眠れたとも思わなかったが、時計は結構な時間を示している。勿論、日課を済ませ、大道寺家を訪ねるには十分過ぎる時間だ。
 部屋のカーテンを開き、ベランダへ出てみる。朝の早い時間のきりりとした空気が肺を身体の中を満たしていく。雲間から漏れる朝の光が透明すぎて眩しい。
「・・・必ず見つけるから。待っていてくれ」
 小狼は夢の中の彼女に向かい、ささやいた。
 

 


 


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 もう、次で終わりますから・・・・
前回からかなり間があきまして、本当にすみません