ぶつくさと〜く

【番外編】 時間 (2004.11)

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Vol.34にも登場、当時名古屋にあった「n.v.cafe*」というカフェに、
2004年11月の「リレーコラム」として投稿した内容です。

最近、電波腕時計というものを持つようになった。
今も私の腕で、1秒の誤差もなく動いている。

おおまかにしか合わせていない時計をしていた頃は、
朝の通勤電車と競争するように駅まで走り、ぎりぎりで飛び乗る日々が多かった。

あまりに全力で走り過ぎて気分が悪くなり、
駅のホームでハワイアンダンスばりにふらっふらになることもあったし、
時には「独りニーダウン」をホームでかましてしまうこともあった。

正確な時間を持つようになっただけでそれが無くなり、
快適な朝を迎えていることに、わずかながらの幸せを感じる。

―――――

時間・・・それは人間が1日を勝手に86,400秒に区切っただけのモノサシである。

このモノサシのせいで、ある時は「あなた、待ち合わせに3分遅刻よ」とカウンターパンチをくらい、
ある時は「まだ仕事が終わるまで1時間もあるやん」と頭に巻いたハチマキをそっとはずす。

これほど時間に縛られて生きている生き物が他にいるだろうか?

自らが作ったモノサシに自らが振り回される。
ある意味、人間は「どM」なのかもしれない。
(なんのこっちゃ)

―――――

ふと思うことがある。

1秒という単位がもっと長くて、例えば1分が20秒くらいしか無かったら、
湯船で10秒温もってから出るように言われた子供の指の皮はもっとふやふやになっていただろう。

1分という単位がもっと長くて、例えば1時間が20分くらいしか無かったら、
5分間走を走らされた後にはもっとオケツの筋肉がパンパンになっていただろう。

また、1時間という単位がもっと長くて、例えば1日が8時間くらいしか無かったら、
一つ一つの打ち合わせがめっちゃ長くて今以上に無駄な話し合いが行われ、
経済の発展や技術の進歩はもっと遅れていただろう。

そう考えるとこのモノサシは、ある程度は的を射た区切り方であったのかもしれない。

―――――

まぁいずれにせよ、昔から「時は金なり」ということわざがあるように、
今この瞬間にも時間は過ぎて行き、
松村和子が三味線を持ちながらどれだけ叫んでみても(古っ)、2度とは帰ってこないのである。

だからこそ、1秒1秒を時計が刻むのを無駄に待っているのではなく、
今この大切な時間を想い出として心に刻みたいと思う。

我々人間には、そんな素敵な能力が備わっているのだから。

(番外編 おしまい)


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